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| 1.岩倉使節団とは |
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岩倉使節団は、明治新政府によって派遣された大規模な公式の使節団です。政府で重要な位置を占める人々が参加するこの初の使節団の派遣は、明治維新によって新しい時代を切り拓きつつあった当時の日本にとって、国づくりをかけた大きな試みでした。
使節団は、明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)に横浜を出航しました。太平洋を渡って米国に半年以上滞在して後、大西洋を越え、同年7月13日(西暦では8月17日)に欧州に入りました。そして、英国に約4ヶ月間滞在したのをはじめとして、欧州の国々を1年近くにわたって歴訪しました。明治6年(1873年)7月20日に仏国マルセイユ港を発った使節団は、スエズ運河経由でインド洋をまわり、明治6年(1873年)9月13日に横浜に帰り着きました。この時、10ヶ月半という当初の予定を大きく超過して、出発から約1年10ヶ月という月日が経っていました。
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![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
「原本大使全書」巻頭 |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
使節の成果(大使全書 巻頭[無題]) |
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| 2.使節団の構成員 |
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使節団の中心となっていたのは、特命全権大使の岩倉具視(右大臣、公家出身)、副使の木戸孝允(参議、長州藩出身)、大久保利通(大蔵卿、薩摩藩出身)、伊藤博文(工部大輔、長州藩出身)、山口尚芳(外務少輔、肥前藩出身)で、一般にこの大使・副使を併せて「使節」と呼びました。
これ以外に、一等書記官の福地源一郎(外務大記、旧幕臣)、二等書記官の林董三郎(董)(外務七等出仕、旧幕臣)をはじめとする、一等から四等に分けられた書記官たち、後に『米欧回覧実記』を著す久米邦武(権少外史、肥前藩出身)、内海忠勝(神奈川県大参事、長州藩出身)らの大使随行、田中光顕(戸籍頭、土佐藩出身)、佐々木高行(司法大輔、土佐藩出身)らの理事官とその随行員たちを加え、全46名によって使節団は構成されていました。これに18名の随従者がともない、さらに、出発時には、若き女子5名を含む43名の留学生も率いられていたので、当初は総勢108名の集団だったことになります。
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![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
使節団の構成員(大使全書 8号16号) |
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| 3.使節団の目的 |
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岩倉使節団が目的としていたことは、大きく2つ挙げることができます。
1つは、不平等条約の改正に向けた予備交渉です。幕末期に欧米諸国と結ばれた不平等条約を改正し、独立した一国家として各国と平等なかたちでの国際関係を築くことは、明治新政府の重要課題でした。しかし実際には、使節団は最初の米国との交渉の段階で実質的な改正交渉は不可能と気づき、以降に訪れた欧州諸国では、改正の希望を伝えるに留めなければなりませんでした。
使節団のもう1つの目的は、欧米各国の国家制度、産業技術、伝統文化などを視察することでした。新しい国づくりに挑んでいた明治新政府にとって、近代的な産業や、政治制度、司法制度、社会制度など、他国の優れた点を学んでそれを自国に採り入れることもまた、大変重要な課題でした。また、同行した留学生たちも各国に留まって勉学に励み、後に帰国して活躍することが望まれていました。使節団はまさに、「智識を世界に求め」たのです。 |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
使節の総括(大使全書 巻頭[無題]) |
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| 4.使節団の時代 |
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日本の情勢
使節団を送り出した当時の日本では、新政府が、版籍奉還や廃藩置県といった中央への権力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、経済、法律、社会などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。しかし、こうした政策に対して不満をもつ士族は多く、民衆も血税一揆や新政反対一揆などのかたちをとって反発や抵抗を見せました。一方で、政府内部においても、めざすべき国家のあり方についての考えや出身藩の違いによる意見の隔たりが存在していました。
このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが欧米を歴訪し各国を視察したことによって、ヨーロッパの国家をモデルとした国づくりの方向性に具体的なイメージがもたらされました。その一方で、長期にわたり日本を離れた使節と留守政府との間の隔たりは大きくなり、それが岩倉らの帰国後、西郷隆盛の朝鮮への派遣をめぐる意見の対立として表面化し、ついに明治6年の政変を迎えることになりました。
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![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
使節と留守政府との約定(大臣参議及各省卿大輔約定書) |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
使節と留守政府との約定(欧米派出大使御用留三) |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
「約定書」正本 |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
「約定書」草稿 |
![[年表]](img/bu_nenpyo.gif) |
日本の情勢 年表 |
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世界の動き
■アジアの情勢
19世紀のアジアは、欧米列強の進出に直面していました。インド・東南アジア地域では、シャム(タイ)を除く各地が列強の植民地にされていきます。また、清はイギリスとのアヘン戦争に敗北。その戦後処理としての南京条約をはじめとして、列強と不平等条約を締結するなど、東アジアにおいてもそれまで長年にわたって維持されてきた体制が揺らぎ始めていました。
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![[年表]](img/bu_nenpyo.gif) |
アジア年表 |
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■米国の情勢
使節団訪問当時のアメリカ合衆国は、南北戦争が終わり、再び一つにまとまって発展の道を歩んでいました。南北戦争は、奴隷労働に支えられる大農園経営を経済基盤としていた南部の諸州が、工業化を進めていた北部の諸州と奴隷制の是非をめぐって対立し、合衆国を脱退したことから起こりました。開戦直後から、合衆国大統領リンカーンは黒人奴隷の解放を進めていきました。5年に及んだ戦争は大きな損害をもたらしましたが、その一方で軍需によって工業が発達し、戦後は急速な経済発展が実現していました。 |
![[年表]](img/bu_nenpyo.gif) |
アメリカ合衆国年表 |
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■欧州の情勢
使節団が訪れる少し前まで、ヨーロッパでは革命や戦争が相次ぎ、国々が目まぐるしくかたちを変える時代が続いていました。ドイツがひとつの大きな国としてまとまったのも、使節団が訪れるわずか2年ほど前だったことが、下の年表からもわかります。日本は、同じように新しい国づくりを進めていたドイツから多くを学ぼうとしました。また、イギリス、フランスといった産業的に大きな発展を遂げていた国々は、その力をもってアジアやアフリカなどの様々な地域に広く進出しはじめていました。 |
![[年表]](img/bu_nenpyo.gif) |
ヨーロッパ年表 |
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| 5.使節団の記録 |
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使節に同行した理事官((専門調査官)や視察官が欧米の制度・文物を調査した成果は、大使事務局によって、部門ごとに調査報告書『理事功程』『視察功程』として編纂され、明治10年(1877年)、政府に提出されました。これらを含む膨大な記録文書が、公文書として今日に伝わり、その大部分は国立公文書館蔵『大使書類』として整理されています(その概要については、画像の下にある「『大使書類』の構成」をご覧下さい)。また、翌年末には対外的に正式の報告書とされる『米欧回覧実記』が久米邦武の編修により太政官から刊行されました。 |
![[解説]](img/bu_kaisetsu.gif) |
『大使書類』の構成 |
![[資料解説]](img/bu_siryou.gif) |
皇居火災、文書が灰に(本朝公信 54号55号) |
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【「原本大蔵省理事功程」6冊 表紙】 |

【『米欧回覧実記』全5冊】 |

【『米欧回覧実記』挿画の銅版
「威尼斯(ヴェニス)府ノ古政事堂」ほか】 |

【国立公文書館の書庫】 |
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