アジ歴ニューズレター
アジ歴ニューズレター 第49号
2026年3月31日
特集
外務省提供の「戦後外交記録」の紹介(2)
センター長 波多野澄雄
はじめに
外務省外交史料館は、2016年度から公開済の「戦後外交記録」を、おおむね時系列順にアジ歴に提供している。別表(一覧表)は、2024年末までに提供された戦後記録を、外交史料館におけるアルファベット順の「分類番号(A’~M’)」にしたがって一覧表とし、大まかな案件毎に「区分」したものである(前回の紹介以降に新たに加わった記録類も含まれている)。
アジ歴提供の戦後記録は、今のところ1970年代初頭までである。太平洋戦争の「戦後処理」の問題を抱えつつも、長い占領期を脱して独立を回復し、対米関係の再構築と安定化を基本として、アジア諸国との外交関係の再建、そして国際社会への復帰が大きなテーマであった。
アジ歴ニューズレター第45号(2024年12月)では、第1回として、別表の「区分1(ポツダム宣言受諾関係)~区分3(終戦連絡事務関係)」まで、すなわち終戦・引揚げおよび連合軍の日本本土占領にかかわる一部の記録を紹介した。今回は「区分4(本邦外交政策一般)」以降の記録類を、戦後日本外交史の観点から重要な案件や特徴的な案件のごく一部を簡単に紹介してみたい。また、「区分1~4」のなかで、前回紹介できなかった重要案件についても、捕捉的に紹介することにしたい。
なお、前回の一覧表では「区分」の番号はローマ数字で表記したが、今回は算用数字とした。
主要案件の紹介にあたっては、刊行中の戦後期の外交文書集『日本外交文書』(以下、主タイトルのみ『 』で示す)を適宜、参照している。『日本外交文書』(戦後編)は、外交史料館において公開可能な戦後記録を基礎に、比較的まとまった外交案件について重要記録を選別して体系的に編纂・刊行したもので、主要案件毎の顛末や概要を知るのに便利な手掛かりとなる。
①『占領期』(全3巻)
➁『占領期 関係調書集』
③『平和条約の締結に関する調書』(全5冊)
➃『サンフランシスコ平和条約』(全3巻)
⑤『日華平和条約』
⑥『平和条約の締結に伴う賠償交渉』上・下
⑦『平和条約の締結に伴う賠償交渉 関係調書集』第1巻 →『賠償調書集』と略記
⑧『国際連合への加盟』
⑨『GATTへの加盟』
⑩『沖縄返還 第1巻(第3次吉田内閣期から池田内閣期まで)』
⑪『昭和期Ⅳ 日米関係 第1巻(昭和27~29年)』
以上のうち、①~⑩は「特集方式」、⑪は「編年体方式」と呼ばれる。前者はとくに重要な案件毎に、後者は重要な二国間関係(戦後は日米関係)について、一定期間の文書を時系列で編纂したもので、第2巻は昭和30(1955)年~昭和35(1960)年までの「日米関係」が予定されている。
Ⅰ.占領から独立へ
【1】占領期
帝国憲法改正(新憲法の制定)関係
日本国憲法の制定(1946年11月)は、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正手続にしたがって進められたことは良く知られている。「帝国憲法改正関係一件」として提供された関係文書は、改正経緯を詳細に知ることはできないが、外務省がこの問題にどのように向き合ってきたかを良く示している。
外務省は終戦直後から帝国憲法の改正を予期し、独自に調査研究を進めていたが、「帝国憲法改正関係一件」には、外務省における憲法構想、GHQと日本政府(終戦連絡事務局)との来往信綴、松本憲法担当大臣の「憲法改正私案」、白州次郎終戦連絡事務局参与がGHQ民生局に宛てた書簡などが収録されている。なかでも白州書簡は「ジープウエイ・レター」として知られ、日本側の憲法構想は「国情に沿った道筋(ジープウエイ)」であるべきことを図で示している。
「(題名なし)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070081300、帝国憲法改正関係一件 憲法改正草案要綱関係(A’.3.0.0.2-1)(外務省外交史料館)、76画像目
他方、天皇制の行方に関心を寄せていた外務省は、憲法学者の宮澤俊義(東京帝大教授)、政治学者の高木八尺(東京帝大教授)ら法学、哲学、政治学、歴史学などの分野の権威者十数名に講演や執筆を依頼して多角的な観点から天皇制擁護の論拠を探っていた。それらの意見や論考をまとめた『天皇制研究』は興味深い。その内容はアジ歴が昨年公開した「終戦80周年インターネット特別展」(萎みゆく帝国日本)の第4章で紹介されているので参照されたい。また、『占領期』(第3巻)には、憲法制定に関する外務省関係の主要文書が収録されている。
【2】中間賠償
「中間賠償」とは連合国の初期の対日賠償計画を指す。対独賠償問題に引き続き対日賠償問題を担当したポーレー米国大使は1945年12月、対日賠償の目的は軍国主義的復活の阻止、日本経済の安定と民主主義の発展にあること、具体的には、航空機、鉄鋼、工作機械、造船などの生産設備を賠償として撤去し、可能なものは被害を受けたアジア諸国に移転して復興に役立てる、という構想を明らかにした。
ポーレー賠償計画は46年5月には極東委員会において「中間賠償計画」として採択され、連合国全体の政策決定となり、同年には各産業部門の500を超える工場が賠償指定を受け、日本側はそれらの工場の解体と積み出しの義務を負うことになった。46年11月に公表されたポーレー最終報告は、さらに高い撤去水準が示される。この最終報告の特徴は、新規の生産物による賠償が含まれないことであった。48年1月には、中国船が工作機械類を積んで横須賀から上海に向け出航した。これが賠償搬出の最初であった。その後、ストライク調査団の勧告や、ジョンストン調査団の報告書などで、賠償撤去の緩和が米国政府の方針となり、49年5月には極東委員会米国代表マッコイの声明によって中間賠償が中止される。マッコイ声明は、中止の理由として、これ以上の賠償撤去は日本経済の安定と自立化という占領目的を阻害することなどを挙げていた。
別表の「区分29」は、ポーレー大使による調査報告(ポーレー報告)を初め、占領下の連合国の対日賠償政策の推移や実施に関する資料群によって構成される。
「2.ポーレー大使声明(一九四五・一二・七)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B19010370200、占領下の対日賠償関係 ポーレー大使来朝関係(B’.3.1.1.1-3)(外務省外交史料館)、2画像目
「8.ポーレー大使の対日賠償最終報告に関する見解」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B19010370800、占領下の対日賠償関係 ポーレー大使来朝関係(B’.3.1.1.1-3)(外務省外交史料館)、2画像目
また『占領期』(第2巻)には中間賠償に関する主要文書が、『賠償調書集』には「今次賠償問題の経緯」、「対日賠償問題の経緯概観」など有用な調書が収録されている。
【3】対日平和条約・(旧)日米安保条約・再軍備問題
外交史料館はサンフランシスコ平和条約(平和条約)の調印から50年目にあたる2001年に『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書』(全5冊)が刊行した。これが戦後期の『日本外交文書』の最初であった。この調書は1947年から約5年間、条約局長を務めた西村熊雄氏が退官後に自らまとめたものである。調書の写しが外務省以外にも複数施設に保管され、刊行以前から「西村調書」として知られていた。
他方、外交史料館は、この「西村調書」とは別に、平和条約に関する主要文書の編さんを進め、『サンフランシスコ平和条約』(全3冊)を刊行している。この3冊は、「西村調書」と重複する文書もあるが、45年秋に始まる平和条約に関する省内研究から51年9月の調印にいたる過程を「準備対策」、「対米交渉」、「調印・発効」と三段階に分けて重要文書を編さんしたものである。
平和条約交渉の特徴の一つは、国際政治と国内政治の動向に大きく左右されたことである。「準備対策」(第1巻)では、「全面講和」か「多数講和」(単独講和)か、世論の二分化や朝鮮戦争を背景に、日本政府の交渉姿勢が「多数講和」に大きく傾く様相が示される。
もう一つは、平和条約交渉が戦後日本の安全保障問題と「一体不可分」(吉田茂首相)として進展したことである。初期には両者は平和条約に統合することが想定されていたが、本格的な対米交渉の段階では日米安全保障条約を別個に取り決めを結ぶことになる。また安全保障問題は日本の再軍備問題とも密接に関連しており、51年1月末のダレス特使との会談で、吉田総理はかねて検討してきた「国家治安省」構想と五万人規模の「民主的軍隊」建設計画を「再軍備計画の当初措置」として米側に示した経緯も確認できる(「対米交渉」第2巻)。
「21 2月3日先方に交付した「再軍備の発足」 昭和26年2月3日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B25091074800、対日平和条約関係 第1次ダレス来訪関係(第1次交渉) 第1巻(B’.4.0.0.1-3_001)(外務省外交史料館)、2画像目
「21 2月3日先方に交付した「再軍備の発足」 昭和26年2月3日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B25091074800、対日平和条約関係 第1次ダレス来訪関係(第1次交渉) 第1巻(B’.4.0.0.1-3_001)(外務省外交史料館)、3画像目
平和条約調印後の52年1月から2月末まで、安保条約に基づいて日本に駐屯する米軍の法的地位を規定する日米行政協定の締結交渉が東京で行われるが、「調印・発効」(第3巻)にはその交渉経緯が含まれている。
平和条約関係の提供記録(区分37、B項4類)には、以上の刊行された外交文書集には収録されていない、平和条約の各条文の分析や実施に関する大量の文書が綴られている。
Ⅱ.アジア諸国との関係再建
【1】日華平和条約(区分39)
日本と台湾の中華民国政府とは、いわゆる「吉田書簡」に基づく交渉を経て1952年4月に日華平和条約を結び、国交を回復した。「吉田書簡」とは、対日平和条約調印後の51年12月、来日したダレス大統領特使が吉田総理に、日中講和に関して(北京の中華人民共和国ではなく)、中華民国政府と交渉の意思があるか確認を求めたのに対し、吉田総理がダレス宛に発出した書簡を指す(52年1月に公表)。吉田書簡は、対日平和条約の諸原則にしたがって中華民国政府と国交再建の用意がある旨を述べたうえ、「この条約の条項は、中華民国に関しては、中華民国国民政府の現実の支配下に現にあり、又は今後入るべき領域について適用あるもの」と記されていた。中国側はこれを歓迎し、直ちに交渉が始まる。
日本側は交渉の目的を「戦争状態の終結」とみなし、国民政府側は「平和条約」とみなすという齟齬があった。
日本側は、「平和」という字句では台湾だけではなく中国大陸全般に及ぶ懸念があった。また日本側は適用範囲について「中華民国政府が現に支配し、又は今後支配すべき地域に限る」旨の規定を交換公文に入れること主張した。
一方、中国側は、条約の適用範囲について「現に支配し、又は今後支配する」の「又は」を「且つ」と変更することを主張した。日本側は「又は」を「且つ」と変更することは吉田書簡の字句の変更であるとして拒否した。結局、交換公文では日本側の主張通りとし、議事録で「又は」は「且つ」の意味を有しうるもの、と述べることで了解した。
さらに中国側は、正統政府としての立場の維持のため、満洲国や汪兆銘政権など「協力政権」(傀儡政権)の在日財産を中華民国政府への引き渡しを議事録に明記するよう求めた。日本側は台湾のみに支配力を有する中華民国政府との間で、それを議事録に明記することを拒否し、交渉の最大の難問となった。結局、両国の合意が成立した際に引き渡す旨を議事録に陳述するになった。
以上の争点に関する主要文書は、日華平和条約関係の文書(区分39)を基礎とした『日華平和条約』において要領よく整理されている。
【2】東南アジア賠償-「経済協力」方式による解決
1951年秋に米国によって公表された「対日講和七原則」は、全ての連合国が賠償請求権を放棄する原則を掲げ、主要連合国は請求権の放棄へと向かう。この「無賠償方針」には、戦争の直接の被害国であったフィリピンが激しく抵抗したため、平和条約には「賠償」の項目(第14条)がおかれた。この第14条は、それまでの賠償の観念とは異なる3点の特徴があった。
第一は、日本は希望する国との個別交渉によって「役務賠償」を支払う義務を負うとされたこと、第二は、日本の支払い能力を考慮して賠償額を決定する原則を掲げ、日本経済が破綻するような過酷な賠償を避けるよう歯止めがかけられていたこと、第三は、賠償実施の基礎が、求償国の一方的な要求によるのではなく、日本経済への影響が考慮され、毎年度の賠償実施計画の決定は求償国と日本との「協議」によるとされたこと。
平和条約第14条によって、賠償請求の意思を明らかにしたのはフィリピン、インドネシア、ビルマ、ベトナム、ラオス、カンボジアの六ヵ国であったが、これら東南アジア諸国にとっては、過去の戦争に対する相応の賠償なくして日本がアジアに復帰することに消極的な国々であった。その一方、ラオスとカンボジアが賠償請求権を放棄したため、結局、日本が賠償交渉に臨む相手は、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアの四ヵ国であった。
これら4国と日本との賠償交渉の詳細は区分30~32、35(B’門3類1項)によって知ることができるが、それぞれの交渉は孤立していたわけではなく、相互の関係が常に意識されていた。たとえば、4国の中で最初に妥結したビルマは、他の3国の賠償総額等の妥結の程度によって再交渉を可能にする「再検討条項」を設け、その後に妥結したインドネシアやフィリピンに比べ賠償総額に不満で「再検討条項」を発動したため、再交渉となった。
また、平和条約第14条には「役務賠償」の規定が置かれたが(前述)、役務の提供だけで多額の賠償を長期間支払うのは現実的ではなかった。したがって、個別協定では、役務の比率を減じて、生産財による実物賠償に重点が置かれるようになる。例えば、ビルマやインドネシアとの賠償協定では生産財による実物賠償を認め、また、フィリピンとの協定では消費財による賠償も含まれた。しかし、純然たる金銭賠償はあくまで認められなかった。
以上のような経緯を含む4国との賠償交渉の全体像は、『平和条約締結に伴う賠償交渉』(上下)および『賠償調書集』によって知ることができる。とくに前者には、51年秋の日本政府の「賠償に関する基本方針」の策定から、ベトナム賠償協定の調印までの経緯を示す主要文書が収録されている。
難航した東南アジア諸国との一連の賠償交渉は、経済的利益を優先する「経済協力方式」によって決着したことは、賠償資金を活用したインフラ整備に結びつき、日本の経済的な再進出――輸出市場の開拓に道を開くことになった。1950年代末には、賠償は円借款へと切り替えられ、強制された債務の支払いという段階から政府の意思による経済協力が本格的に始まることになる。
【3】「南アジア」から「東南アジア」へ
ところで、1950年代から60年代半ばまで、日本のアジア諸国との経済関係の中心は、現在の南アジア諸国(インド、パキスタン、セイロン)であった。その点を良く示しているのが、区分73(E’門2類4項)のインド、セイロン、パキスタンとの経済技術協力に関する簿冊類である。要するに日本との関係増進の妨げとなる賠償問題とは、ほぼ無関係の国々であった。
1950年代を通じて、東南アジアと言えば南アジアを含む「広義の東南アジア」を指していた。しかし、65年に本格化するベトナム戦争は、それを大きく転換させ、経済関係の中心が南アジアからビルマ以東の「狭義の東南アジア」にシフトしていく。60年代には賠償問題がほぼ解決し、インドネシアやビルマ、フィリピンに対する日本の経済活動が活性化したこともその要因であった。
【4】コロンボ・プランとバンドン会議
50年代の日本とアジアの関係の特徴を示す出来事として、54年のコロンボ・プラン加入と、55年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)への参加が重要である。
前者(区分78)は、英連邦諸国間のアジア太平洋地域のゆるやかな「地域協力」の枠組として出発したが、英連邦以外の自由主義諸国にも参加を呼びかけること、域外からのドナーの誘致に門戸開放を原則としていたため、加盟国は順次拡大していった。地域協力とはいえ「二国間援助」を基本とするコロンボ・プランに、日本は「援助国」としての加入を検討していたが、戦前期貿易のダンピング問題などから、英連邦側は日本の加入に慎重であったが、54年に米国の斡旋で実現した。日本が加入を閣議決定した10月6日は「国際協力の日」とされている。
加入後の日本の貢献は、技術協力に限られたが毎年開催の協議委員会には積極的に参加し、60年に東京で開催された協議委員会は、池田内閣が支援した最初の大規模国際会議であったことから内外の注目を集めた(ただし、東京大会の記録は残されていない)。
後者のバンドン会議(区分61)は、いわゆる「第三世界」の結束を世界にアピールした国際会議として知られ、インドネシアのスカルノや中国の周恩来が会議をリードした。西側諸国の懸念は、会議を契機として中国の影響力が拡大し、中立主義諸国が「反西側ブロック」に発展することにあった。日本は参加を躊躇していたが、米国は日本の不参加よりも出席を促して、会議の行方を「監視」させ、中立主義や共産主義諸国の攻勢を押しとどめ、自由陣営の一員として役割を担わせることが得策と考えた。こうして日本は高碕達之助(経済企画庁長官)を団長に参加を決定した。代表団へ訓令には、「自由諸国の一員」として、「アジア・アフリカ諸国との親善友好関係の増進」を目的としつつも、「現国際政局におけるわが国の立場に鑑み、本会議が偏狭な性質のものに堕ちることなく、十分広い世界的視野の中に運営されるよう」釘を指していた。また、訓令は「わが国が積極的に関心を表明すべき問題」として経済協力と文化交流を挙げていた。
55年4月に開幕したバンドン会議では、日本は訓令通り「経済協力に関する提案」や、文化学術交流について提案を行っている。後者では、多角決済方式の必要性、多角方式による経済開発資金の援助などを提案し、「多角的貿易及び決済の範囲拡大の原則」が共同コミュニケに明記される。
【5】岸首相の東南アジア歴訪
1950年代のアジア外交を象徴する出来事が、57年の岸総理の二度のアジア諸国を歴訪であった。区分6(A’門1類5項1目)には、6月のビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、中華民国(第一次)、11月からの豪州、ニュージーランドの訪問(第二次)にいたる経緯、準備状況、各国要人との会談録、訪問各国の反応やマスメデイアの論調などが含まれる。
岸内閣の優先的な外交課題は、日米関係の対等化-「安保改定」であり、岸は、6月には日米首脳会談を実現するが区分6(A’門1類5項2目)、東南アジア六カ国訪問が岸の判断によって訪米の前に設定された。岸によれば「アジアの中心は日本であることを浮き彫りにさせることが、・・・日米関係を対等なものに改めようと交渉する私の立場を強化する」もの、と考えたからである。
岸の東南アジア訪問の目的は、「東南アジア全体の総合的な解発の為に、地域的開発機構が望ましい」ことを説いて、「東南アジア開発基金構想」(区分62)への参加を促すことにあった。東南アジア諸国を対日協力に誘引できる分野は、経済開発・経済協力に限られていた。
しかし、国別の折衝に臨んだ第一次訪問では、二国間援助を排除するもの、基金創設はアメリカや世界銀行の資金の削減につながるもの、「大東亜共栄圏の戦後版であり、日本の経済侵略を意図したもの」といった批判を浴び、成功とはいえなかった。
57年11月からの第二次東南アジア訪問でも、岸は東南アジア開発構想に固執し、第一次訪問の反省を踏まえ、多角的援助方式とコロンボ計画などの現行の二国間べースの援助方式は推進されるべきであり、むしろ「既存の援助方式や国際金融機関との相互補完の関係に立つもの」、アジア諸国の自主的意向は十分反映される、といった説得を重ねる。
しかし、第二次訪問時までに、タイ、カンボジアは国内事情から不参加が明らかとなり、インドも資金調達の方法が不明であるとし、セイロンは英米からの出資が確実でない限り意味がなく、「アジア諸国は既存の双務援助の方が有利と思う」と突き放した。米国が出資に消極的というニュースが根拠のないまま広まったことも痛手であった。
日本がいかに包括的な地域協力を望んでいたとしても、アジア諸国は依然として二国間援助方式に固執する傾向が強かったのである。
その一方、第二次東南アジア歴訪にあたって、岸はその中心課題はインドネシア賠償交渉の妥結にあるとする了解を自民党と内閣から取り付け、事務当局の作業を尻目に11月の岸・スカルノ会見で一挙に妥結したことは大きな成果であった(区分30)。
Ⅲ.国際社会への復帰
【1】国際連合への加盟
日本は平和条約の締結によって念願の独立を果たしたが、もう一つの目標は国連加盟であった。アジ歴に提供された国連加盟に関する記録類は、その過程を詳細に伝えている(区分22)。また、『国際連合への加盟』には関連する重要記録が選別して収録されている。
日本の国連加盟は紆余曲折を経たが、それは米ソ冷戦の影響のみではなかった。日本の加盟申請は平和条約発効の52年から始まる。加盟要件を満たすとして同年の第7回総会で採択された日本の単独加盟勧告決議案がソ連の拒否権行使で否決される。その後、53年のスターリンの死、55年のバンドン会議、ジュネーヴ4大国首脳会議など緊張緩和が進むなかで、米国は「準加盟」方式を提唱するが、日本は正式加盟をめざした。
55年にはカナダが提案した18カ国一括加盟案が総会で賛成多数で採択(ソ連賛成、米国棄権、中華民国反対)されるが、米ソ間の調整不十分、モンゴルの加盟に反対していた中華民国の説得も不調に終わり、安保理(安全保障理事会)では中華民国が拒否権を行使したためソ連は全ての西側諸国に拒否権を発動した。
56年には日ソ国交回復交渉の進展に期待する声が広がるが、外務省は楽観せず、あくまで両問題を切り離す方針をとった。国連局はAA諸国の強力な支持を確保してソ連の反対を封じ、また中国代表権問題等の影響を避けつつ、単独無条件加盟を目指した。
日ソ交渉が56年10月に妥結し、日ソ共同宣言に日本の加盟をソ連が支持する旨が記されると、日本政府は安保理開催による単独加盟を提議する方針を固める。他方、中国代表権問題のからみで反対が予想される中華民国には、日本の支持に変わりがないこと、などの説明に努めた。こうして56年12月、AA諸国を代表してイランが日本の加盟申請の審議のための安保理開催を要請し、全会一致で採択され、続いて総会では、51カ国の共同提案による日本の単独加盟決議案が全会一致(77カ国)で可決された。
「5.国連加盟問題 昭和三十一年十二月~同三十二年二月/(2)国連第十一回総会における日本の加盟決議」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B20010167800、日本の国際連合加盟関係 正式加盟関係(第11回総会において採択) 第5巻(B’.2.0.0.2-4_005)(外務省外交史料館)、45画像目
日本の加盟を記念して決議案原文に各国代表が氏名と国名を記帳した。
ちなみに、国連総会に関するファイルは日本の加盟のみならず、第1回総会(1946年)から第30回総会(1975年)まで、各総会に関して日本側がまとめた調書類や関係記録を閲覧できる。
【2】国際機関への加入
日本政府は、占領期から国連の各種の専門委員会に加盟の努力を継続し、その実績を国連加盟につなげようとした。50年代半ばまでの主要な国際機関への加経緯がアジ歴提供記録(区分25)によってわかる。国際通貨基金(IMF)万国郵便連合(UPU)、国際電気通信連合(ITU ),国際労働機関(ILO)、世界保健機関(WHO)、教育科学文化機関(UNESCO),食糧農業機関(FAO)、世界気象機関(WNO),国際通貨基金(IMF)などである。
日本の多国間外交にとって、重要だったのは域内諸国の経済発展や社会開発のため、国連経済社会理事会の下部機関として設置されたECAFE(アジア極東経済委員会)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)であった。前者はコロンボ・プランと並んで、援助のための「地域協力」の枠組として重視した日本は、活発な活動を展開した(区分26)。
後者のGATTは、自由貿易の拡大を目的に、加盟国間の関税引き下げと無差別原則(最恵国待遇、内国民待遇)によって世界経済の成長を促すとともに、同時に国際貿易関係に一定のルールを確立することを任務とした多国間協定である。このGATTへの加盟問題に関する文書類(区分77)からは、加盟申請から仮加入を経て、55年の正式加盟にいたる詳細な経緯を知ることができる。
日本の加盟の障害となったのが第35条であった。第35条は、新規加入国が、最恵国待遇などの既存のルールを盾に市場に参入することを防ぐ保護貿易的な手段であり、日本の加盟にあたって英国、フランス、豪州など14カ国が35条を適用し、日本からの輸入品に差別的な制限を課し続けた。この35条問題を含むGATT加入問題は、きわめて専門技術的な交渉の連続である。それを補って理解を容易にしているのが重要文書を選別・編集した『GATTへの加入』である。
Ⅳ.日米関係の発展
【1】MSA協定と再軍備問題
1951年1~2月の吉田・ダレス会談で吉田は、限定的な再軍備を約束していたものの、その規模や速度について日米間には何の合意もなかった。
53年夏から米国の対外援助に関するMSA(相互安全保障法)に基づく交渉が東京で始る。経済復興を達成するためには、米国の援助をなお必要としていた日本は、最小限の防衛努力と引き換えに、より大きな援助を引き出そうとした。一方、米側は日本の再軍備の促進をねらいとしていた(区分44)。
交渉はまもなく行きづまり、同年10月から自由党政調会長であった池田勇人が訪米し、打開の道を探る。この池田・ロバートソン会談でも、米側が30万人以上の陸上兵力の整備を求めたのに対し,池田は18万人以上にはコミットしなかった。池田は訪米前に、吉田と重光とを会談させ、自衛隊の創設で合意を成立させて会談に臨み、経済再建を優先する路線を堅持した。
その後、米国は54年に入ると性急な再軍備の要求を控えるようになる。53年3月のスターリンの死去、夏の朝鮮戦争とインドシナ戦争の休戦など緊張緩和が進んだ。アジアでは、東西両陣営の線引きが一応終わり、それぞれの陣営内の指示的安定と発展が競われるようになる。米国にとっては、自由陣営内の政治的、経済的安定こそがより大きな関心事となり、日本にも軍備増強を求めるより、経済復興と政治的安定を優先させる路線に舵を切るのである。こうした傾向は55年になるとさらに明確となる。
【2】吉田首相の欧米外遊(区分6)
吉田総理は、54年9月下旬、欧米歴訪に出発する。カナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、英国などを歴訪し11月初旬に米国に到着した。米国訪問の重要な目的の一つは,東南アジア開発のため、米国の支援を求めることにあった。輸出振興を優先課題としていた吉田内閣は、大陸との貿易関係が中国の共産化で閉ざされたことから、その活路を東南アジアに求めようとしていた。東南アジアの経済開発は、共産中国の影響を封ずるためにも必要であったが、米国の資金援助は不可欠であった。
米国訪問では、こうした観点から巨額の資金投入を前提とした「アジア・マーシャルプラン」構想を示すが、米側は応じなかった。吉田が欧米首脳に力説した第2の提案は、中ソ離間であった。吉田によれば、「ソロバンに合わないことはしない」という「中国人の国民性」からして、経済発展は共産中国をソ連から離反させ、自由陣営に惹きつける有効な手段であった。日中貿易の促進もこうした観点から必要とされた。
第3は、共産主義対策における日英米提携の必要性である。吉田の眼から見ると、米国の戦後中国政策は、中国の過剰な反発を招き共産化を促したという意味で失敗であった。そこで、戦前から中国を良く知る日英の連携を軸に中共対策にあたるべきであった。アイゼンハワー大統領との会談では、日米英による「対共産主義機関」をシンガポールに設置することを提案している。
吉田が2カ月にも及ぶ欧米歴訪から帰国したとき、反吉田の新党運動は盛り上がり、鳩山を総裁に日本民主党が結成される。民主党は12月初旬、左右社会党とともに、内閣不信任案を提出した。吉田は総辞職を選択するほかはなった。
この時期の外交文書集『昭和期Ⅳ 日米関係 第一巻(昭和二七~二九年)』には、アイゼンハワー期の日本が、経済自立をめざしながらMSA援助や外資導入の問題など米国との間にどのような関係を将来的に築くのか、という問題と並んで戦犯釈放やガリオア資金の返済問題など戦後処理問題をめぐって緊張関係も見られ、その後の日米関係の行方を示唆して興味深い。
【3】沖縄・小笠原返還問題(区分46)
1952年4月、対日平和条約が発効し、沖縄・小笠原を含む南西諸島は、同条約第3条によって米国の施政権下におかれた。吉田総理は51年12月、ダレス特使(のち国務長官)宛の文書で、①南西諸島は日本の主権下に残ること、➁住民の国籍に変更なきこと、③現地住民の裁判権や教育権を認めることなどを要請した。
これらの問題は独立後の対米交渉の主題となるが、①についてダレスは51年9月、日本は琉球諸島の「潜在主権」を保有する旨を発言していたが、米側は潜在主権の有無について明言を避け続けた。たとえば53年12月、奄美群島の返還協定の調印に際し、ダレスは「極東の脅威と緊張状態が続く限り米国は現在の施政権を継続する」ことを改めて強調した。
この間、52年には米軍は軍用地の確保のため、農地の強制収用の権限を独立後も維持する方針のもと土地収用を継続する。とくに54年の地代の一括支払方針は、土地の永久使用につながるとして沖縄住民が強く反発し、日本政府もこの方式が潜在主権を実質的に失わせることを懸念した。56年には米国調査団によるプライス報告が発表されるが沖縄住民の要望に応えるものではなく、反対運動の激化を招き、いわゆる「島ぐるみ闘争」に発展する。外務省は法的決着よりも政治的解決をめざして対米折衝を続ける。
55年の重光・ダレス共同声明でも沖縄・小笠原に言及されず、57年の岸総理の訪米によるダレスとの共同声明では、日本側の潜在主権の保有が再確認されたが、施政権返還については極東で脅威と緊張が存在する限り、現状維持との米国の立場に変わりはなかった。
58年10月、岸総理は日米安保条約の根本的改定をめざし正式交渉に臨む。
米国案の第5条は沖縄・小笠原は米国の「条約地域」(日米の共同防衛区域)に規定されていた。日本側は、施政権の返還という問題を誘発する可能性があり、また海外派兵問題として国会でも問題となるとして、草案の修正を求め、結局、「日本国の施政の下にある領域」が条約地域となった。
60年1月日米間で新安保条約、行政協定にかわる地位協定などが調印された。新安保条約は、条約地域に対する外部からの武力攻撃に対し、米国は日本を防衛する義務を負うこと、日本は、条約地域内で米国が武力攻撃を受けた場合、それを「共通の危険」とみなして防衛する義務を負うことになった(第5条)。また、附属の交換公文では、領域外への米軍の戦闘行動や、核兵器の持ち込みについて事前協議制を定めた。
以上の概要は、「区分12」の関係記録類などから選別して編纂・刊行された『沖縄返還 第1巻(第三次吉田内閣期から池田内閣期まで)』によって知ることができる。
64年に始まる佐藤内閣期には、ベトナム戦争が本格化し米国にとっての沖縄の戦略的重要性を高まり、返還交渉は難航が予想された。佐藤総理は、国内的には早い時期に施政権の一括全面返還を決断して様々な返還論を封じ込め、対米関係では、返還時期を先に決めるという交渉テクニックを駆使しながら、米側の了解を取り付けていった。安保条約の沖縄適用にともなう難題であった「事前協議制」や「核撤去」問題も外務当局の協力を得ながら慎重に解決し、72年の返還を約束させた69年11月の佐藤・ニクソン共同声明に結実させていった。以上の詳細は「区分12」の記録類に譲る。
米国にとって、基地機能の自由使用こそが返還の最も重要な条件であったが、日本政府にとって「本土並み」返還とは、安保条約とそれに基づく「事前協議制」を返還後の沖縄にも適用することであった。そのため両外交当局は事前協議制の運用をめぐって激しい駆け引きを繰り返し、日本側は「密約」(佐藤・ニクソン合意議事録)を余儀なくされたが、アジ歴提供の戦後記録には含まれていない(外務省HP「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会報告書」を参照)。
注意すべきは60年に結ばれた日米安保条約の関連記録が公開にいたっていないことである。そのため沖縄返還にともなう日米安保条約の沖縄適用という問題の詳細を知るための障害となっているが、日米の一次史料を活用した多くの研究文献によって補うことができる。
百万を超える人口と相当な経済力を有する地域(沖縄)の平和的な主権移行は前例のない国家的大事業であり10を越える省庁がかかわった。外務省記録はこの大事業の一部を明らかにしているに過ぎない。
Ⅴ.トピックス
(1)「戦後条約書」
外務省では、条約の調印や批准に際して作成される署名本書や批准書、各種の付属文書、さらに政府間協定、共同声明、交換公文などの国際約束にかかわる文書を「条約書」と呼んでいる。2019年から実務協定や交換公文、往復書簡など、戦後外交記録とは別の分類がなされている「戦後条約書」の公開も開始された。これまで対日平和条約、旧・日米安保条約、日中共同声明、日ソ共同宣言、日中平和友好条約など主要条約と関連の実務協定を含む累計で342件の「戦後条約書」が公開されている。
これらの「戦後条約書」のうち「降伏文書等」と合わせて278件がアジ歴で閲覧可能である(別表の提供資料一覧には記載されていない)。「降伏文書等」には45年9月2日にミズリー号で調印された「降伏文書」のほか、中国、朝鮮半島、フィリピン、豪州などアジア太平洋における日本軍の「現地軍降伏文書」も含まれている。
「降書」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070337700、第1軍司令部備忘録綴 昭和20年(防衛省防衛研究所)、1画像目
「INSTRUMENT OF SURRENDER of the Japanese Imperial Forces in the Philippine Islands to the Commanding General United States Army Forces, Western Pacific」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020716900、ルソンにおける降伏文書(防衛省防衛研究所)、1画像目
(2)要人の訪日アルバム
戦後国賓第一号として訪日したニクソン米副大統領をはじめ、訪日した国賓、公賓、政府賓客のうち、訪日から30年を経過した全ての記録は公開されている(区分7)。
1955年から60年代までに訪日したアジア諸国の要人には次の指導者が含まれる。ピブン・ソンクラム(タイ首相、55年)、ウ・ヌ(ビルマ首相、55年)、シハヌーク殿下(カンボジア首相、55年)、張群(中華民国総統府秘書長、57年)、ネルー(インド首相、1957年)、ラーマン(マレーシア首相、58年)、ガルシア(フィリピン大統領、58年)、スカルノ(インドネシア大統領、59年)、アユブ・カーン(パキスタン大統領、60年)、マルコス(フィリピン大統領、1966年)、ガンジー(インド首相、1969年)など。
現物で公開されている要人訪日アルバム(区分86)には、要人が来日した際の写真アルバムが綴られ、関連するファイルと併せて閲覧することで当時の雰囲気をかいま見ることができる。
たとえば、57年10月、国賓として来日したネルー首相は、要人との会談のほか、広島原爆資料館や奈良の東大寺、京都御所などを訪問した。上野動物園では、49年に東京の小学生の要望でネルー首相が贈ったインド象(ネルーの令嬢の名をとって「インディラ」と命名)と対面した。「国賓訪日記念アルバム ネール・インド首相」(区分86)にはこの時の様子が綴られている。
「国賓訪日記念写真アルバム/ネール・インド首相 第1巻」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B21010377900、国賓訪日記念写真アルバム ネール・インド首相 第1巻(L’.5.0.0.1-12_001)(外務省外交史料館)、22画像目
(3)皇太子明仁親王の訪英(1953年)
1953年3月30日、皇太子明仁親王(現、上皇陛下)は、昭和天皇の名代としてエリザベス女王の戴冠式に出席するため、プレジデント・ウイルソン号で横浜港を出発した。ハワイ、サンフランシスコ、バンクーバー、オタワ、ニューヨークなどを経由して4月27日に英国に到着。エリザベス女王との会談では、流暢な英語で積極的に話しかけ、耳の遠くなったチャーチル首相には、顔を近づけるように話しかけ、「孫が御祖父と会話しているようだ」などと評され、和やかな雰囲気の会談に終始したと記録されている(区分84、「皇太子継宮明仁親王殿下御外遊一件」)。
「九.英国御訪問中 」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B23010293100、皇太子継宮明仁親王殿下御外遊一件 英国エリザベス女王戴冠式御出席(昭3~昭28.10) 第3巻(L’.1.1.1.3_003)(外務省外交史料館)、10画像目
その一方、50年代は、英国内には捕虜の処遇問題をめぐって戦争の傷痕が色濃く残り、対日感情は必ずしも良好とは言えなかった。そのため、皇太子の英国訪問を直ちに「日英親善の証し」として大げさに宣伝しない、といった記述や、日英関係の再建のための「一つの礎石を置いたことに意義がある」など控えめな外務省の評価が印象的である。
6月のエリザベス女王の戴冠式に出席したあと、皇太子はフランス、スイス、スウエーデンなどを訪問し、再び米国に渡り、10月12日に帰国した。この間、訪問した国は14カ国にのぼり、半年を越える長旅であった。
(4)第五福竜丸事件(1954年)
1954年3月1日、ミクロネシアのマーシャル諸島のビキニ環礁附近(米国が設定した危険水域の外側)で操業中のマグロ漁船・第五福竜丸が、水爆実験(キャッスル作戦)によって乗組員23人の全員が被爆した。無線長の久保山愛吉氏(40歳)が半年後に死亡した。別表の区分67にまとめられた関係記録類は、事件に関する文書を広く収録している。そのなかには第五福竜丸の「航海日誌」や「漁撈日誌」をもとに被爆の経緯をまとめた文書が「第五福竜丸その他ビキニ環礁被災事件関係一件」に含まれているが、日誌類そのものは外務省記録には存在しない。
55年に米国側から、賠償金ではなく「好意による見舞金(ex gratia)」の名目で200万ドル(当時の日本円で約7億2000万円)が支払われた。その一方、事件をきっかけに核兵器廃絶を求める内外世論が急速に高まり、55年の第1回原水爆禁止世界大会の開催につながった。
【参考文献】
アジア歴史資料センター協力室「アジア歴史資料センターへ画像提供した戦後外交記録について」(『外交史料館報』36号、2023年)


/分割1B17070081300-1024x724.jpg)
」-1024x724.png)



国連第十一回総会における日本の加盟決議」JACARアジア歴史資料センターRef.B20010167800-1024x724.jpg)



第3巻L.1.1.1.3_003外務省外交史料館-1024x724.jpg)