アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第47号

2025年5月27日

特集(2)

「日本海海戦」と沖ノ島

はじめに

2025年は1905年(明治38)に終結した日露戦争から120年という節目の年となります。そのなかで、日本とロシアとの戦いの雌雄を決したとされるのが、1905年5月の「日本海海戦」です。アジ歴では「日本海海戦」の行われた5月27日に合わせて、「日本海海戦」についての動画「【レミニス アジ歴】インターネット公開資料で見る「日本海海戦」」とそれに関する特集記事を準備しました。

「日本海海戦」は対馬海峡で行われた海戦であり、艦船同士の戦いでありましたが、それを陸地から観測し、状況が逐次大本営に伝えられていました。日露戦争に備え、日本列島の各地に防衛拠点が築かれ、情報通信網が構築されていたのです。そして、古くから海上交通の重要な拠点であり、連綿と祭祀が行われてきた祈りの島として後に世界遺産にも登録される「沖ノ島(おきのしま)」にも、戦争に備えて、施設が建設され、海底ケーブルが結ばれました。

この沖ノ島は「日本海海戦」の主戦場にもっとも近い場所に位置することになり、現地では戦闘の様子が間近に観測されていました。【レミニス アジ歴】インターネット公開資料で見る「日本海海戦」ではその様子を解説しています。それでは、なぜ沖ノ島にこのような施設が設置されたのでしょうか。それは、後に世界遺産に登録されるこの島が歴史的にも海上交通の要であったことからも分かるように、その地理的な重要性と無縁ではありません。本稿では「日本海海戦」にもっとも近い場所にあった沖ノ島とそこに設置された関連施設について、アジ歴公開資料から解説すると共に、現地での貴重な見聞記録についても紹介したいと思います。

 

1 日露戦争に備えた監視施設と情報通信網

 周囲を海に囲まれる日本、攻め込む勢力は海の向こうからやってきます。そのため、陸軍・海軍共に国土防衛のため、沿岸の監視と要地の防備に力を入れます。その一つが各地に設けられた物見やぐらというべき「望楼」です。海軍は1894年(明治27)に公布された「海岸望楼条令」(Ref: A03020176700)に基づき、全国の沿岸要地に望楼を設置し、海上の監視や航行艦船との通信、または測候や水難報告などの業務にあたらせました。1900年(明治33)には「海軍望楼条令」(Ref: A03020461700)が公布され、海上の見張りと通信、気象観測を行う施設として改めて設置されました。【画像1】なお、この時に宗谷岬に設置された海軍望楼が「大岬旧海軍望楼跡」(北海道稚内市)として現存しています。常設の望楼以外にも日露の開戦に伴い、各地に仮設の望楼が開設され、戦争終結後に多くが廃止されています。

【画像1】「海軍望楼条例・御署名原本・明治三十三年・勅令第二百五号」(Ref A03020461700、4画像目)

【画像1】「海軍望楼条例・御署名原本・明治三十三年・勅令第二百五号」(Ref: A03020461700、4画像目)

 

陸軍も沿岸の監視のため、ロシアとの戦争に備えて各地に「海岸監視哨」を開設しました。これは海上および海岸に発生する軍事上重要な事件を監視し、通信するために設置されたもので、海岸望楼とも連携して、敵勢力の上陸に備えるために要地に置かれました(「参謀本部 海岸監視哨勤務令及同哨位置等の件」Ref: C03023096700)。これらも日露戦争終結後には多くが廃止されています。「日本海海戦」の主戦場に近い津屋崎(福岡県福津市)にも監視哨が設置されており、大峰山自然公園内に日本海海戦記念碑と共に津屋崎監視哨の記念碑が設置されています。【画像2】

【画像2】

【画像2】「大峰山自然公園の日本海海戦記念碑と津屋崎監視哨記念碑」(執筆者撮影)

 

要地の防備としては列島各地の港湾や海峡の警備が固められ、海軍は鎮守府・要港部ごとに管内の軍港を中心に、陸軍は各地の要塞を拠点にして、要地の防衛にあたりました。陸軍ではさらに伊勢神宮を守護するために山田に部隊を派遣し、当初は第三師団から(「伊勢大廟に歩兵1中隊派遣の件」Ref: C03020024400)、次いで近衛後備歩兵連隊から歩兵一個中隊が派遣され、伊勢神宮の警備が固められました(「伊勢大廟警護隊交代の件」Ref: C06040586800)。

さて、いくら沿岸の監視を強化しても、それらからの情報が迅速に指揮系統に伝わらなければ用をなしません。そのため、各地の拠点を結ぶ電信による通信網の整備が進められていきます。日本国内の電信網は1869年(明治2)12月の東京~横浜間の電信回線に始まり、そこから全国に張り巡らされていきます。1877年(明治10)の西南戦争では政府軍の勝利にも貢献し、軍事的な有用性が確認されました。国際電信回線との接続は1871年(明治4)にデンマークの大北電信会社(Great Northern Telegraph Company)によって、長崎~上海間、そして長崎~ウラジオストク間に海底ケーブルが敷設されることで始まります。この年に欧州へ向けて出発した岩倉使節団はこの電信網を利用して、各国との交渉の様子を日本政府に逐次報告することができました。1883年(明治16)には呼子(佐賀県)から壱岐・対馬を経由して釜山(韓国)につながる海底ケーブルが大北電信会社によって敷設され、日清戦争の際にも大いに活用されました。なお、アジ歴のインターネット特別展「公文書にみる明治日本のアジア関与-対外インフラと外政ネットワーク-」では、明治期の海底電線網について紹介しております。

しかし、日本と朝鮮半島を結ぶ海底ケーブルが海外の会社の所有物であることは軍事上の問題もあり、軍専用の回線を敷設したいと考えます。また、ロシアとの戦争を控え、遠方に位置する外国艦隊との戦いに備え、海軍では「通信ノ迅速」の必要性を強く感じ、通信網の強化に取り組みます。上記の各地に設置された監視施設とそれらを結ぶ電信・電話網が構築されていきました。そして、もう一つが無線通信の開発です。なお、当時の電話は伝える情報が徐々に弱くなる性質が強く、長距離の通信には向かず、主に短距離での通話に用いられ、長距離は電信による電報を使っての情報伝達が主でした。海軍は日露戦争開戦の少し前から軍用の海底ケーブルの敷設を進め、相浦(佐世保)から巨文島を経て八口浦(韓国)をつなぐ回線を手始めに、九州北部や本州西端から朝鮮半島、そして中国大陸を結ぶ電信網を構築していきます。当時の有線による軍事電信網が「軍用電信連絡一覧図(明治三十八年六月)」(Ref: C05110109700、81~82画像目)として記されています。【画像3】

【画像3】「軍用電信連絡一覧図(明治三十八年六月)」(Ref C05110109700、81~82画像目、画像加工)

【画像3】「軍用電信連絡一覧図(明治三十八年六月)」(Ref: C05110109700、81~82画像目、画像加工)

 

一方、艦船上でも通信が可能な無線電信に着目した海軍は、1899年(明治32)から無線電信の研究を開始し、1901年(明治34)には「三四式無線通信機」を制式化するに至りました。さらに改良が加えられた「三六式無線電信機」が1903年(明治36)に完成し、海軍艦隊と主な望楼などに設置されることになりました(「無線電信室内諸機械電路接続之図」Ref: C05110110100、88画像)。そして、「日本海海戦」の数か月前に設置された無線通信機がロシア、バルチック艦隊の動きを伝えたのです。

海軍に徴用され、仮装巡洋艦として対馬海峡の哨戒にあたっていた信濃丸は1905年(明治38)5月27日の早朝、「敵艦隊ノ煤煙ラシキモノヲ見ユ」の電報を発し、そこから「敵艦見ユ」、「敵ハ東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」と、バルチック艦隊の動きを逐一発信しました(「軍艦和泉戦時日誌(6)」Ref: C09050405600、30~41画像)。【画像4】ロシア艦隊が対馬海峡を通過することを確認した連合艦隊は、旗艦三笠を中心に鎮海湾を出発、対馬海峡に向かい、北上するバルチック艦隊と沖ノ島付近の海域で対峙することになりました。

【画像4】「軍艦和泉戦時日誌(6)」(Ref C09050405600、31画像目)

【画像4】「軍艦和泉戦時日誌(6)」(Ref: C09050405600、31画像目)

 

2 「日本海海戦」と海上交通を支える沖ノ島

ロシア艦隊の動きを察知するために各地に設けられた監視施設や観測船の情報は、有線・無線の通信により、中央に集約されました。そのなかで、1904年(明治37)2月4日、ロシアとの外交関係が断絶し、艦隊に発進命令が下り、戦時編制の実施が命ぜられると、仮設の海軍望楼が各所に設置されます。そのなかでも北部九州と朝鮮半島の間、対馬を挟む海域には多くの望楼が設置されました。【画像5】そのなかで、「朝鮮海峡ノ衝ニ当レル沖ノ島」にも望楼が置かれることになりました(『第3編 通信/第1章 通信の大要」Ref: C05110109600、10画像目)。それでは、この沖ノ島はどのような島なのでしょうか。

【画像5】「佐世保鎮守府所管望楼図」(「第3編 通信/第4章 望楼」Ref C05110109900、22画像目拡大)

【画像5】「佐世保鎮守府所管望楼図」(「第3編 通信/第4章 望楼」Ref: C05110109900、22画像目拡大)

 

沖ノ島は福岡県宗像市の沖合約60キロメートルに位置する島です。島は東西約1キロメートル、南北は約500メートル、周囲約4キロメートルほどの島で、海底岩盤が隆起して原型が形成されたと考えられており、断崖絶壁が海にせり出す地形が特徴的です。島の北東から南西にかけて尾根が走り、もっとも高い地点は標高243.6メートルの一ノ岳で、険しい地形のため人の定住には適しておらず、手つかずの自然林が残されており、1926年(大正15)には「沖の島原始林」として国の天然記念物に指定されています。

しかし、玄界灘に囲まれた島の立地は、この海域を往来する人々にとって拠点となるべき場所であり、縄文時代から附近で漁をする人々が立ち寄っていた痕跡が残されています。また、付近の海域から漂着する例もあり、アジ歴公開資料「朝鮮国人漂到ノ件ニ付福岡県知事具申」(Ref: B12081773800)にも漂流民の救難のことが記されています。なお、原則的に島への上陸が許されていない現在でも、沖ノ島は第四種避難港の指定を受けているため、荒天時などには島に避難できるよう港湾設備が整備され、命をつなぐ島として、この海域の安全を担っています。

明治時代にあっても神聖な場所として信仰されていた沖ノ島ですが(註1)、戦時非常態勢のため、やむを得ないこととして宗像神社側も建設を認め(『宗像神社史』上巻、175頁)、1904年(明治37)年4月、佐世保鎮守府は沖ノ島でもっとも高い一ノ岳山頂に望楼及び灯竿(灯台)を建設しました。【画像6】さらに7月になり、「浦潮艦隊ノ南下ニ対シ、作戦上遺憾尠カラサルモノアリ」として、海底電線の敷設が命じられ、対馬の竹敷と沖ノ島、沖ノ島と山口県の角島、そして本土の特牛を結ぶ海底ケーブル網が構築され、沖ノ島望楼での電信事務が開始されました(「第3編 通信/第1章 通信の大要」Ref: C05110109600、11画像目)。そこから発信された「日本海海戦」の様子は動画で紹介したように「今開戦中ナリ次第ニ北ニ進ム」などと、逐次の情報を伝えるものでした(「日本海海戦電報報告1(1)」Ref: C09050518500、44画像目)。沖ノ島からは周辺の海域がよく見えたようで、戦後に行われた学術調査時の記録にも、天気の良い日は灯台から壱岐や対馬、さらには本州の西端まで望むことができたと記されています(『宗像沖ノ島』本文編、11頁)。

【画像6】「沖島望楼電信室位置略図」(「備考文書」Ref C05110110100、380画像目)

【画像6】「沖島望楼電信室位置略図」(「備考文書」Ref: C05110110100、380画像目)

 

しかし、この絶海の孤島である沖ノ島望楼での勤務は過酷だったようで、1905年(明治38)2月には皮膚病が蔓延し、施療のために軍医が派遣されています(「明治三十八年二月十日第一艦隊参謀海軍大尉丸山寿美太郎ノ提出セル沖ノ島望楼視察報告」(「備考文書」Ref: C05110110100、398~400画像))。その際の視察報告によると、望楼は上陸地点より健脚の者でも30分は登る険阻な山の平地に築かれていること、望楼は平屋建てであり、5~6坪ほどの居住空間があるが、さらに3坪の平屋を増設したことなどが記されています。その図が増築位置図に示されているものでしょう。【画像7】また、夏は蚊やアブの襲来が多く堪えがたいこと、本土との交通は漁船が2週間に1回往復があるが、冬季には北風が強く1か月以上も船が出せないことがあること、そして栄養不足から脚気の患者が発生し、死亡者も出ていることが記されており、孤棲単調な生活を改善する必要があることを報告しています。なお、戦後に発掘調査が行われた際の記録にも調査隊がアブの襲撃や山ビルに悩まされたことや時化で船が出ず、食糧不足に陥ったことが記されており、滞在することが厳しい環境であることが窺われます。

【画像7】「筑前国沖島仮設望楼増築位置図」(Ref C05110172700)

【画像7】「筑前国沖島仮設望楼増築位置図」(Ref: C05110172700

 

なお、この沖ノ島望楼は日露戦争後に「終始機敏ニ彼我ノ動静ヲ報告セル」として、賞詞が与えられたうえで、ほかの仮設望楼同様に閉鎖されました(「第3編 通信/第4章 望楼」Ref: C05110109900、46~48画像)。しかし、その海域における重要な立地から、昭和期になると防備衛所が設置され(「派遣隊所在各地域(13)「沖ノ島派遣隊」」Ref:C08011400400)、砲台が構築されました(註2)。また、灯竿は灯台となり、改修を経て無人化されていますが、現在も付近を航行する船の導きの光となっています。古代から姿を変えながらも、この海域を航行する人々を守護するところは変わらないと言えるでしょう。

 

3 沖ノ島から見た「日本海海戦」

さて、沖ノ島は無住の島でしたが、先述のように沖津宮が鎮座し、宗像神社の神職が交代で宿直して祭祀を執り行っておりました。「日本海海戦」の当時も沖津宮に宿直していた主典の宗像繁丸と社夫の佐藤市五郎の両氏が沖ノ島に滞在しており、その様子を目撃していました。その見聞は沖津宮の日々を記した「沖津宮社務日誌」に記録されており、日本海海戦の模様を伝える貴重な一次資料となっています。

この「沖津宮社務日誌」の該当部分は「官幣大社宗像神社沖津宮案内略記」のなかに抜粋して記されており、アジ歴でも見ることができます(「廃艦払下に関する件(1)」Ref: C04016252200、31~35画像目)。「日本海海戦」を誰よりも近くで見聞した一民間人の記録がどのようなものだったのでしょうか。例えば、「日本海海戦」といえば動画でも紹介しました「天気明朗ナレドモ波高シ」という、三笠から大本営に送られた電報が有名ですが(「日本海海戦電報報告1(1)」Ref: C09050518500、30画像目)、下記の沖津宮の社務日誌によれば、前日の26日から天候が悪く、対馬の望楼から暴風雨に警戒するよう電報があったことが記されています。そして、海戦の当日は「5海里」(約9キロメートル)先は見えない天候であり、大島に所在する中津宮の宿直日誌にも「濃霧」のため、島で一番高い御嶽山に登ったが砲声は聞こえても船体は見えなかったことを記しています。そのような天候でしたが、沖ノ島では艦隊の動きを詳細に捉えて記録しています。以下に、「日本海海戦」の際の部分を抜粋して内容を紹介するとともに、該当箇所の資料画像を掲載し、附録として原文を掲載します。【画像8~11】「日本海海戦」当時の様子を知る手掛かりになれば幸いです。

 

(内容紹介)「沖津宮社務日誌」明治38年5月26日条、27日条、28日条、29日条(「日本海海戦」に関わる記述を抜粋して、内容を要約した。なお、〔 〕内は筆者による補注。)

〇5月26日 西風、暴風降雨

本日は天候が大いに悪く、聞くところによると午前3時に対馬の望楼から暴風雨警戒の電報があったとのことである。

〇5月27日 西風強く、曇天霧霞

本日午前7時40分ごろ、「敵艦隊が東水道を通過したと思われるので警戒するように」との至急電報が来たと、望楼からの電話連絡を受けた。正午から沖ノ島の西北方向に砲声が盛んに聞こえる。

午後1時ごろ、「我が艦隊が見えない」との電報が来たという通知を受け、一同が目をこらして海上を警戒していると、2時15分ごろから砲声が次第に近づいているように聞こえたので、気を付けて見ていたが、本日は霧霞のため海上5海里から外は見えず、見張りは困難だった。

2時半ごろ敵か味方か不明であるが、1隻が砲火を左右に受け、もっとも苦戦のありさまで、力を尽くして応戦をしながら西南方向4海里の位置に現れた。我が艦隊か、それとも敵の艦隊なのか、我が艦隊でなければ、それは敵に違いないと瞳をこらしてよく見ると、我が艦隊の和泉が敵の砲撃を受け応戦しつつ退却している状況であった。間もなく敵の艦隊18隻、水雷艇と駆逐艦とを合わせて5、6隻が、忽然と4海里先の位置に現れた。その陣形は整っていなかったが艦隊の間には水雷艇と駆逐艦を挟みながら西北の方向に進行していった。我ら一同怒りを抑えることができなかったが、どうすることもできなかった。

望楼もすぐに所々に急報しようとこの間、みな敵の動静に気を付けているところに、2時40分、忽然と4隻の軍艦が西南の方向に現れ、一同は再び敵艦が遅れて到着したのではないかと恐怖の念を禁じ得なかったが、よく見ると喜ばしいことに到着したのは待ちに待った我が艦隊の千代田、常磐、磐手、八雲の4隻で、敵の捜索のために到着したのである。

直ちに砲火は開かれ、殷々たる砲声は刻一刻と激しさを増し、天のかこいは破れ、地の綱はほどけるほどであり、砲煙は一面に海上を覆い、閃光は爛々として、海の神の眠りを覚まし、加えて強風は収まるところを知らず荒れ狂い、朝からの薄霞もあり、海上の光景はますます陰惨の具合が高まり、凄絶にして壮絶の状況が極まるほどであった。

午後3時、我が艦隊が敵艦を圧迫し、敵艦は方向を変えて逃れようとし、我が艦隊はそれを遮ろうとしていた。この時、はやく遠くの海上に我が艦隊の主力50隻あまりの艦船が現れ、共に退路を断ち、包囲攻撃を始めると、敵艦隊はいよいよ隊形を乱して苦戦しはじめ、我が艦隊は挟み撃ちで追撃しながら西北方向に進行していった。

午後4時になると敵艦隊の隊列は四離七裂となり、苦戦して各艦は各自に逃れ出るような感じであった。この際、海戦は三か所で演じられ、戦闘艦は双方が互いに組み合い、駆逐艦や巡洋艦の各艦ともにまるで番組のように戦っていた。この時、敵艦2隻が火災を起こし、一隻は高懎〔※マスト〕が折れ、機関部の損傷か、斜めになり苦戦しているようだった。我が艦も(盤手だろうか)、損傷のためか一時的に隊形から離れ後方で応急の手当てをしてすぐに戦列に加わった。5時ごろからは追撃となり、沖ノ島から遠ざかったため、日没と共に見えなくなった。

午後8時ごろ電話にて「敵艦3隻が西南方向に向かったと思われるので探海灯を点灯したが今は見えないので、警戒を頼む」との連絡があり、すぐに水夫の佐藤松之助と御高〔※「おだか」〕に登り見張りした。しばらくして亀瀬〔※「がめぜ」か〕の向こう、東の方位に、並びに天狗鼻、木屋島〔※「小屋島」〕の方位に白色の電灯を見たためすぐに望楼に報告した。この艦は壱岐沖の方向に逃れたもののようだった。続報を待ち、終夜遠く砲声を聞いた。一同は寝に就くことなく明け方を迎えた。

〇5月28日 西風、晴。

本日は天気晴和にして、海上を遠く展望できる。昨日が本日のようであれば、海戦に便利で観戦にも都合がよかったと思うばかりである。情報によれば、本日朝鮮松島附近で双方大激戦中とのこと、10時ごろ電報で「敵は少なくとも4隻撃沈された」ということであった。砲声はやはり遥かに殷々として聞こえる。

午後3時、扶桑、筑紫、高尾の3艦が西北を通過した。

〔欄外部分〕本日、石見国の三輪船長、加藤三代吉分船長、大木豊一郎の二隻の船が対馬の北部、7海里のところで、ロシアの小型蒸気ボートが漂流しているのを発見し、所載の軍旗二竿、オール(櫂)三丁、錨一丁を得たので、望樓からの依頼によって押収した。ボートも曳いてこようとしたが、追い風がなく、沖ノ島から八里離れたところに放棄したという。

〇5月29日 晴天、北東風

本日午前10時本島東南8海里ばかりのところに、岩手、八雲の2艦が通過した。見分けが付かないまでは敵艦かと思い非常に騒動をした。ようやく見分けが付き、我が軍の大勝利の報が伝わった。一同は万歳を三唱した。

【画像8】

【画像8】「沖津宮社務日誌」明治38年5月26日条(部分)(執筆者撮影)

 

【画像9】

【画像9】「沖津宮社務日誌」明治38年5月27日条(前半)(執筆者撮影)

 

【画像10】

【画像10】「沖津宮社務日誌」明治38年5月27日(後半)、28日条(前半)(執筆者撮影)

 

【画像11】

【画像11】「沖津宮社務日誌」明治38年5月28日条(後半)、29日条(部分)(執筆者撮影)

 

 

【参考文献】

    • 『日本無線史』第10巻(電波監理委員会、1951年)。
    • 『沖ノ島宗像神社沖津宮祭祀遺跡』(宗像神社復興期成会、1958年)。
    • 『宗像大社昭和造営誌』(宗像大社復興期成会、1959年)。
    • 『宗像神社史』上巻(宗像神社復興期成会、1961年)。
    • 第三次沖ノ島学術調査隊編『宗像沖ノ島』(宗像大社復興期成会、1979年)。
    • 原剛『明治期国土防衛史』(錦正社、2002年)。
    • 弓場紀知『古代祭祀とシルクロードの終着地 沖ノ島』(新泉社、2005年)。
    • 鎌田幸藏『雑録 明治の情報通信-明治を支えた電信ネットワーク-』(近代文芸社、2008年)。
    • 岡崇「沖ノ島の戦時遺構」(『沖ノ島研究』2、2016年)。
    • 『福岡県の戦争遺跡』(福岡県教育委員会、2020年)。
    • 『新修宗像市史 いくさと人びと』(宗像市、2022年)。

〔附記〕「沖津宮社務日誌」の閲覧および画像掲載にあたっては宗像大社に格別の配慮を賜りました。記して感謝を申し上げます。

〈アジア歴史資料センター調査員 河野保博〉

 

(1)沖ノ島は対馬海峡の東水道に面し、九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通の要衝、つまり、日本列島と朝鮮半島・中国大陸をつなぐ東アジア海域の航路上に位置することから、古くから対外交通の拠点となっていました。「海北道中」と呼ばれる海の道を往来する人々は航海の安全を祈るため、この島で祭祀を行い、さまざまな物が神に捧げられました。特に4世紀後半から9世紀末にかけては、ヤマト王権や古代国家による国家的な祭祀が行われたと考えられ、巨石の上や岩陰などに当時捧げられたものが手付かずの状態で残っており、その貴重性から「海の正倉院」と称されるほどです。なお、1950年から70年にかけて大規模な学術調査が行われ、8万点に及ぶ祭祀遺物が出土し、それらすべてが国宝に指定されています。現在、その一部は宗像大社神宝館に展示されており、観覧することができます。また、神宝館には海軍省が奉納した連合艦隊旗艦「三笠」に搭載されていた羅針儀や東郷平八郎元帥の揮毫した書も展示されています。【画像12】

【画像12】

【画像12】三笠搭載の磁気羅針儀と東郷元帥の書(宗像大社神宝館所蔵)(執筆者撮影)

古代以来、祭祀の空間であった沖ノ島には沖津宮が鎮座し、島そのものがご神体として崇敬の対象であり、大島の中津宮、宗像市内の辺津宮とあわせて宗像三女神を祀る宗像大社を構成しており、2017年(平成29)には「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、世界文化遺産に登録されました。このうち、沖ノ島だけは島全体が神域であり、一般人の入島は厳しく制限されており、宗像大社の神職だけが交代で常駐し、山の中腹にある社殿で祭祀を執り行っています。なお、現在は10日ごとの交代ですが、明治時代初めには100日ごとであったことが、アジ歴公開資料の「宗像神社沖ノ島詰ノ者滞留日当」(Ref: A24010358400)からも知られます。

(2)中津宮が鎮座し、沖津宮遙拝所が置かれる大島(筑前大島、宗像大島)も日本本土と朝鮮半島・中国大陸とを結ぶ海上航路の重要な拠点であり、1936年(昭和11)、玄界灘を臨む高台に砲台が築造されました。【画像13、14】また、沖ノ島と同じく防備衛所が置かれ、この海域の守護にあたりました(「派遣隊所在各地区(15)筑前大島派遣隊」Ref: C08011400600)。また、沖津宮遙拝所の近くには陸軍が設置した潮位を計測するコンクリート製の水尺の一部が残されています。【画像14】

【画像13】

【画像13】大島砲台跡(観測所と弾薬庫入口)(執筆者撮影)

 

【画像14】

【画像14】大島砲台跡(砲座、奥は日本海)(執筆者撮影)

 

【画像15】

【画像15】潮位を測定する水尺の一部(奥は沖津宮遙拝所)(執筆者撮影)

 

【附録】翻刻「沖津宮社務日誌」明治三八年五月二十六日条、二十七日条、二十八日条、二十九日条(史料中、「日本海海戦」に関する記述を抄出した)。

 

廿六日 西風暴強降雨

一 日供奉仕如例    宗像/市五郎

一 本日天候大ニ悪シ聞ガ如クハ前三時對州望樓ヨリ暴風雨ノ警戒電報ガ有リシ由

 

廿七日 西風強曇天霧霰

一 本日々供奉仕如例

宗像/市五郎

一 本日午前七時四十分頃敵艦隊東水道ヲ通過セシモノヽ如シ警戒ヲ要ストノ至急電報アリシト電話ニテ望樓ヨリノ報知ニ接ス正午ヨリ本島ノ西北ニ当リ砲声盛ニ聞コユ午后一時頃我艦隊見ヘザリシヤノ電報アリシ旨通知ヲ得一同視線コラシテ海上ヲ警戒中二時十五分頃砲声次㐧ニ近クガ如ク聞ユ氣ヲ着ケテ西方ヲ見レ共本日ハ霧霞ノ為メ海上五海里ノ外ハ見ヘズ見張リニ困難ナリシ二時半頃敵カ味方カ一隻ノ砲火ヲ前後左右ニ受ケ最モ苦戦ノ有様ニテ必力應戦シツヽ西南四海里ノ処ニ現ハル我艦カ敵艦カ吾レナラズバ必ズ敵ナラントヒトミヲ定メテ能ク望メバ豈計ンヤ我ガ和泉艦敵艦ノ砲撃ヲ受ケ應戦シツヽ退却スルニ在リ間モ無ク敵ノ艦隊十八隻水雷駆逐合セテ五六艘忽然トシテ四海里ノ処ニ現ル其陣形ハ整ハザルモ艦間水雷駆逐ヲ挟ミ西北ニ向ヒ進航ス余等一同怒ニ堪ヘザルモ如何トモ為ス能ハズ望樓ニテハ直チニ所々ニ急報セシト此間人皆ナ敵ノ動作ニ氣ヲ付ケ居リシニ二時四十分忽チ見ル四隻ノ軍艦西南ニ現ル一同又々敵艦ノ後レテ至ルナラント恐荒ノ念禁スルコト能ハス凝視レバ喜フベシ之レ特ニ特チタル吾艦千代田常磐磐手八雲ノ四艦ノ敵ヲ捜索ノ為メ至レルナリケリ直チニ砲火ハ開カレタリ殷々タル砲声ハ刻一刻ニ激ヲ加ヘ天欄為メニ裂ケ地維将ニ挫ケントスルガ如ク砲烟漠々海上ヲ蔽ヒ閃光爛々海若為メニ夢ヲ驚カシ加之強風怒濤裂々トシテ海上ニ吠ユ朝来薄靄ニコメラレタル海上ノ光景盆々陰惨ノ度ヲ嵩メ其ノ凄絶壮絶ノ感ヲ極ム午後三時五艦敵艦ヲ壓迫シ敵艦方向ヲ轉シ逸出セントシ吾又之ヲ遮ラントス此時早ク遠ク海上ニ吾艦隊ノ主力五十隻余現レ共ニ遁路折チテ包圍攻撃ヲナスヤ敵ハ愈々隊形ヲ乱シテ苦戦吾艦挟追撃シツヽ西北ニ進航午后四時ニ至リテハ敵ノ隊列四離七裂苦戦シテ各艦各自ニ逸出セントスルガ如シ此際ノ海戦三所ニ演ラレ戦闘艦ハ彼我互ニ組ミ駆逐巡洋各艦共彼我番組ヲ為スガ如ク角ヘリ此時敵艦ノ弐艦火災ヲ起シ一ハ高懎折レ機関部ノ損セシモノカ斜形シテ纔々苦戦ヲナセリ吾艦モ(磐手ナリシカ)損所ヲ生ゼシモノカ一時隊形ヨリ離レ後方ニテ應急ノ手当ヲナシ直ニ戦列ニ加ハリタリ五時頃ヨリハ追撃トナリテ本島ヲ遠カルガ故ニ日没ト共ニ見ルコトヲ得ザリシ午後八時頃電話ニテ敵艦三隻北南ニ向フ如シ探海燈ヲ点ゼシニ今ハ見ヘズ警戒ヲ頼ムトノ報ニ接ス直ニ水夫佐藤松之助ト御高ニ昇リ見張ス暫ニシテ亀瀬ノ向フ東ノ方位幷ニ天狗鼻木屋島方位ニ白色ノ電燈ヲ見ル直チニ望樓ニ報告ス此ノ艦ハ壱州沖方位ニ逸出セシモノヽ如シ後報ヲ待ツ終夜遠クニ砲声ヲ聞クー同寢ニ就カズシテ天明ニ至ル

 

二十八日 西風晴天

一 日供奉仕如例    宗像/市五郎

一 本日ハ天氣晴和海上遠ク展望ヲ得ル本日ニシテ昨日ナラシメバ海戦便利観戦ニモ都合上好カリシナラント思ヒタリ情報ニ依レバ本日朝鮮松島附近ニ於テ彼我大激戦中トノコト十時頃電報敵ハ少クモ四隻ハ撃沈セラレシト砲声ハ矢張遥カニ殷々トシテ聞ユ午后三時扶桑筑紫高雄ノ三艦西北ニ通過セリ

〔欄外〕本日石見國三輪船長加藤三代吉分船長大木戸豊一郎ノ二舩對州ノ北部七海里ノ処ニ於テ露国ノ小蒸氣ボートヲ漂フヲ見止メ所載ノ軍旗二竿オール(カイ)三丁錨一丁ヲ取得来リシヲ望楼ノ依頼ニ依リ押収スボートモ曳キテ来ラントセシモ追風ナキ為メ沖島ヲ去ル八海里ノ所ニテ放棄セシ由

 

二十九日 晴天北東風

一 日供奉仕如例    宗像/市五郎

一 本日午前十時本島東南八海里計リノ処ニ岩手八雲ノ二艦通過ス見分ケ着カザル迄ハ敵艦ナラント思ヒ非常ノ騒動セリ漸ク見分ヲ得ルニ従ヒ我軍ノ大勝利ノ報ヲ傳フ一同万歳ヲ三唱ス