昭和19(1944)年3月8日、日本軍はインパール作戦を開始しました。
 この作戦は連合国の援蒋ルートの遮断と、イギリス支配下のインドにおける反英運動高揚を目的としたもので、牟田口廉也中将率いる第15軍がインド国民軍とともにビルマからインド東部のインパールへ進攻しました。しかし、補給軽視のために作戦は挫折し、飢餓とイギリス軍の反撃により戦死3万、病死2万人をこす結果になりました。

  • 資料1と資料2は、作戦開始当時の『写真週報』の記事です。日本軍がインド国民軍とともにコヒマを攻略して快進撃している状況が伝えられています。
  • 資料3は昭和19(1944)年5月31日付の『写真週報』におけるインパール作戦に関する最後の記事です。ここでは、敵の「狂奔」にもかかわらず、インパール包囲作戦は大詰めを迎え、「赫々たる戦果をおさめてゐる」ことが伝えられていますが、先に挙げた資料1・2に比べ、敵の動向が淡々と伝えられています。






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