昭和18年(1943年)5月29日、アリューシャン列島アッツ島をめぐる日米の戦いで、山崎保代陸軍大佐率いる日本軍守備隊が玉砕しました。5月12日、米軍1万5千人がアッツ島に上陸、2500人の守備隊は増援もなく、撤退作戦も行わず、29日に全滅しました。このアッツ島の戦いは、大本営がはじめて「玉砕」と発表した戦いです。

  • 資料1はアッツ島玉砕の記事が掲載されている昭和18(1943)年6月16日付の『写真週報』276号です。この記事ではアッツ島の玉砕を讃えるとともに、「われら一億、今こそ戦ひの生活に徹し、この勇士の屍を越えて、敵米英に総突撃を敢行しよう」と呼びかけられています。その後しばらく『写真週報』では、アッツ島の玉砕に関する記事が掲載されています。
  • 資料2は、昭和18(1943)年6月23日付の『写真週報』277号でアッツ島の戦いを指揮した山崎保代大佐を鍛え上げた母校として、名古屋陸軍幼年学校がとりあげられています。





Japan Center for Asian Historical Records