昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー海戦が行なわれました。
ミッドウェー攻略作戦に乗り出した山本五十六連合艦隊司令長官率いる日本艦隊は、6月5日、日本海軍の暗号を解読し待ち伏せしていたニミッツ大将率いるアメリカ艦隊の航空機等による攻撃をうけ、最終的に空母4隻などを失う大損害をうけました。この損害により海軍力を大幅に低下させた日本は、以後の太平洋での戦争において守勢にまわることとなりました。
資料1は、昭和17年(1942年)6月24日付の『写真週報』226号です。この号ではアリューシャン列島を紹介する記事の中で、「米残存空母エンタープライス型一隻、ホーネット型一隻、巡洋艦、潜水艦各一隻を撃沈、飛行機百五十機を撃墜する等、またしても驚嘆すべき大戦果を収めた」と報じています(10画像目)
資料2は、昭和17年(1942年)7月24日にスペインのマドリットに駐在していた須磨弥吉郎公使から東郷茂徳外務大臣に送られた公電です。この中では須磨公使は、ドイツの特務機関筋の内話として、ミッドウェー海戦において日本の「最優秀航母(ママ)四隻ヲ米国カ撃沈シタリトノ報道」をドイツ国防省でも確認している旨を伝え、この情報は、ドイツ特務機関の「情報ノ確実性ヲ測定スル格好ノ尺度」であるとしています。
資料1:A06031082100
写真週報 226号
資料2:B02033030900
25 馬徳里 (25画像目)「昭和17年7月24日須磨公使発東郷外務大臣宛公電第793号(館長符号扱)」