昭和15年(1940年)3月30日、汪兆銘政権が南京に成立しました。
 中国国民政府の中で蒋介石に次ぐ地位にあった汪兆銘は、対日政策をめぐり蒋介石らと対立する中で昭和13年(1938年)12月重慶を脱出してハノイへと移り、その後日本側との間で政権樹立工作をすすめ、昭和15年(1940年)3月30日、自ら「中華民国国民政府」の主席としてその「南京遷都」を宣言し政権を樹立しました(汪兆銘政権)。

  • 資料1は、昭和15年(1940年)3月20日付の『写真週報』108号です。この号では盧溝橋事件から汪兆銘政権樹立にいたる経緯についての当時の日本側の見解が写真と文章をまじえて示されています(2画像目〜6画像目右)。
  • 資料2は、昭和15年(1940年)4月3日付の『写真週報』110号です。この号では汪兆銘政権の閣僚が写真入りで紹介されています(5画像目)。
  • 資料3は、昭和15年(1940年)4月10日付の『写真週報』111号です。この号では汪兆銘政権の成立が特に多くの紙面を割いて取り扱われています。
  • 資料4は、汪兆銘政権成立に至るまでに日本の外務省と他の機関の間でやりとりされた文書をまとめた資料です。この資料の中には、汪兆銘政権樹立工作が「重慶政府の切崩に作用する軍略たる性質を伴うものなること」やそれが近衛文麿内閣以来3代の内閣にわたりおこなわれた「最高の国策なる所以」を説明するために作成された「支那新中央政府の経緯概要」という冊子(1画像目〜8画像目)のほか、政権樹立4日前の昭和15年(1940年)3月26日に有田八郎外務大臣が主要在外公館に送付した、日本政府の汪兆銘政権に対する姿勢を示す「新中央政権樹立一件」(22画像目〜29画像目)といった文書が見られます。




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