昭和14年(1939年)6月14日、日本軍は天津のイギリス、フランス租界の武力封鎖にふみきりました。
 昭和14年(1939年)4月9日、イギリス租界において新海関の中国人監督が暗殺されたことをきっかけに、犯人引渡しを求める日本軍とこれを拒むイギリス側との間で問題の扱いをめぐる対立がおこりました。イギリス側は6月13日解決策としてイギリス人1名、日本人1名、中立国人1名からなる特別審判を提案しましたが、日本の北支那方面軍当局はこれを拒否して6月14日早朝から天津のイギリス、フランス租界の封鎖を実施しました


  • 資料1は、この天津の租界封鎖を扱った昭和14年(1939年)6月21日付の『写真週報』70号です。ここからは租界封鎖のためのバリケードの様子などが見てとれます。
  • 資料2は、封鎖から1週間後の租界の様子を報じた昭和14年(1939年)6月28日付の『写真週報』71号です。
  • 資料3は、租界封鎖直前の6月12日から封鎖実施同13日までの間に外務省が送受した租界問題に関係する文書です。この中にはイギリス側による犯人引渡し拒否及び日本軍の占領軍としての引渡し要求について、外務省条約局が法律的観点から検討した資料(10画像目〜12画像目)や、北支那方面軍司令部が作成した租界問題への対応に関する試案(13画像〜15画像目)などが含まれています。




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