日露戦争とは、明治37年(1904年)2月の開戦から翌明治38年(1905年)8月のポーツマス講和会議までの18ヶ月にわたり、日本とロシアとの間で戦われた戦争を言います。

 明治37年(1904年)2月4日に緊急御前会議においてロシアとの国交断絶と開戦とを決定した日本は、8日にはロシア艦隊と初めて交戦を行いました。 そして、9日には 「露国に対する宣戦の詔勅」 が出され、ロシアとの戦争が本格的に開始されました。 なお、「詔勅」とは、天皇が意志を表示する文書のことを指します。

 戦争が長引くと、日本は軍事的には勝利を収めていたものの国力は著しく消耗し、また一方のロシアでも国内で革命がおこり、両国ともに戦争の継続が困難な状況となりました。 そこで、アメリカのセオドア・ローズベルト大統領の斡旋によりポーツマス講和会議が開かれました。 1か月に及ぶ交渉の結果、明治38年(1905年)9月5日、日露講和条約が署名され、10月16日に批准し、11月25日ワシントンにおいて批准書が交換されました。

 「露国との講和に関する詔勅」 は、日露講和条約締結についての天皇からの詔勅です。 末尾にある「御名御璽」(ぎょめいぎょじ)とは、「御名」が天皇による署名、「御璽」が天皇の印鑑をそれぞれ意味しています。 原資料の末尾で、直筆の署名と印鑑を見ることができます。

 「日露講和条約批准に関する枢密院会議筆記録」 には、明治38年10月4日、明治天皇臨席の下で開かれた日露講和条約批准案件に関する枢密院会議における伊藤博文議長の報告が含まれています。 伊藤の報告には、日露戦争の意義とロシアとの講和条約を締結するに際しての当時の日本の考え方がよく現れています。
 伊藤博文は、講和条約の批准の是非を判断するに際しては世論や衆議院とは一線を画し、ロシアの継戦能力や世界の状況など開戦以来のすべての状況に照らして判断するよう委員に促し、批准案件は全会一致で可決されています。