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  清国末期〜中華民国初期にかけての軍人・政治家です。 李鴻章の死後、清国における最大の実力者となります。 辛亥革命勃発後、1912年(大正元年)に中華民国臨時大総統(後に正式に総統)に就任しました。 やがて自ら皇帝の座につきましたが、内外の反対が強く帝位を維持することができなくなり退位しました。 その後間もなく1916年(大正5年)に没。 享年56歳。
 袁世凱に関する資料は、当アジア歴史資料センターに多数収録されています。 具体的に資料を探しだす方法は、以下のとおりです。

 1.「検索メニュー」画面に進んで、「キーワード検索」をクリックします
   (あるいは「キーワード詳細検索」でもけっこうです)。
 2.「キーワード検索」画面のキーワードに「袁世凱」と入力して
   「検索」ボタンを押します(「キーワード詳細検索」も同様です)。

 この方法で「袁世凱」をキーワードにして検索すると、586件の資料が一覧として表示されます。 表示される資料があまりにも多い場合は、「袁大総統」と入力したり、年代を特定することでさらに絞り込むことができます。

解説文や年表の中の下線の付された文字は、
細字は関連する資料に、
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それぞれリンクしています。

出  来  事
1859年
(安政6年)
中国の河南省項城に生まれる
1881年
(明治14年)
淮軍の呉長慶提督の幕僚となる
1882年
(明治15年)
清朝の命令により朝鮮に派遣される
1885年
(明治18年)
駐朝鮮交渉通商事宜に任命され、朝鮮国の内政・外交に介入する
1894年
(明治27年)

甲午農民戦争日清戦争の勃発
 朝鮮で起こった農民戦争(甲午農民戦争)を理由に、日本と清国は朝鮮半島に軍隊を派遣しますが、ほどなくして両国の軍隊は朝鮮で戦うことになります。
(『坂の上の雲』文庫版第2巻、47〜48頁)

表 題:朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事
レファレンスコード:B03030207500
 甲午農民戦争が発生した際の朝鮮半島の情勢と、清国の対応についての観察です。
(外務省外交史料館)

1901年
(明治34年)
直隷総督北洋大臣に兼任で就任
1905年
(明治38年)

満州に関する日清条約に調印
 日露講和(ポーツマス)条約の第5条・第6条では、南満州におけるロシアの利権を日本に譲渡する際、「清国政府ノ承諾」が必要であると定められていました。 日清条約で、清国は日露講和条約の条項を承認すると同時に、日清戦争後の日清間の諸問題についてとり決めを行うことになりました。

表 題:満洲ニ関スル日清条約御批准ノ件並附属協約
レファレンスコード:A03033989700
 3画像目に、清国の全権大臣だった袁世凱の名前があります。
(国立公文書館所蔵)

1911年
(明治44年)
辛亥革命の勃発(清朝が滅亡し、中華民国が成立)
1912年
(大正元年)
中華民国の臨時大総統に就任
1915年
(大正4年)

自ら皇帝への即位を宣言
 袁世凱は大総統の権限を拡大し、皇帝に即位して独裁的な権力を得ようとしました(帝政運動)。しかし、国内外の反対によって失敗しました。

表 題:袁世凱帝制計画一件(極秘) 第一巻
レファレンスコード:B03050714200
 袁世凱の帝政運動に関する記録の一部です。
(外務省外交史料館所蔵)

1916年
(大正5年)
皇帝即位の延期を発表した後、病没(56歳)