日米交渉 資料解説
昭和16年(1941年)11月4日
東郷外務大臣、野村大使に対し、日本側最終案(いわゆる「甲案」、「乙案」)を通報
資料1:B02030721300 1 昭和16年10月1日から昭和16年11月4日(19画像〜22画像)
「昭和十六年十一月四日東郷大臣発在米野村大使宛公電第七二五号 日米交渉(最終訓令発出ノ件)(大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
資料2:B02030721300 1 昭和16年10月1日から昭和16年11月4日(23画像〜27画像)
「昭和十六年十一月四日東郷大臣発在米野村大使宛公電第七二六号(別電、大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
資料3:B02030721300 1 昭和16年10月1日から昭和16年11月4日(28画像〜31画像右)
「昭和十六年十一月四日東郷大臣発在米野村大使宛公電第七二七号(別電、大至急、館長符号)(原議)」
画像資料
 昭和16年11月4日、東郷外務大臣は野村駐アメリカ大使に対して、日本側最終案(いわゆる「甲案」、「乙案」)を通知しました。
 資料1は、これら2つの案の決定過程、内容の重要性や狙いなどを説明した電報です。この冒頭の「一」では、「破綻ニ瀕セル日米国交」との表現がなされ、事態が非常に厳しいものであることと、その中で政府と大本営が意見を一致させ案(「甲案」「乙案」のこと)を決定するに至ったこととが述べられています。「二」では、日本政府の真意はあくまで日米間の平和的な関係を維持することにあるものの、今回の案による交渉は最後の試みであると位置づけていること、すなわちこれが事実上の最終案であることが強調され、これが失敗に終われば開戦せざるを得ないと述べられています。続く「三」では、これまでの交渉において日本側が譲歩の努力を重ねてきたが、対するアメリカ側は当初の主張を崩してこなかったとし、日本としては既に限界であることが述べられます。そして、「四」「五」ではこうした事情を踏まえて、野村大使が重大な使命を帯びていることが強調され、交渉成立への努力が強く促されるとともに、日本でも東郷大臣とグルー駐日アメリカ大使との会談を並行させることを見据え、ルーズヴェルト米大統領・ハル米国務長官との会談について早急に報告を行うようにとの指示が出されています。
 資料2は、東郷大臣より野村大使に電送された「甲案」です。まず、この「甲案」が9月25日に日本側より提示した案(9月20日の第54回大本営政府連絡会議において決定した『日本国「アメリカ」合衆国国交調整ニ関スル了解案』のこと)にアメリカの意向に可能な限り沿った修正を加えたものであるとの説明が付されています。具体的には、(一)通商無差別問題、(二)三国条約の解釈及び履行問題、(三)撤兵問題の3点について、日本側の主張を緩和するものでした。
 資料3は、「甲案」と同時に電送された「乙案」です。冒頭は、「本案ハ甲案ノ代案トモ称スヘク…」との文言で始まり、「乙案」が、アメリカが「甲案」を受け容れなかった場合に交渉を早急に成功させるために用意したものであるとの説明がなされています。こうした位置づけの通り、「乙案」の内容は、(一)日本は仏領インドシナ以外の東南アジア(「南東亜細亜」)と南太平洋地域への武力進出を行わないこと、(二)オランダ領東インドにおける物資の確保を保障するために日米が協力すること、(三)日米両国間の通商関係を資産凍結前の状態に戻すこと、(四)アメリカは日中和平に向けた取り組みに支障を与える行動を起こさないこと、という4点とともに、さらには「備考」として、以上の取り決めが成立した場合には、日中和平成立あるいは太平洋地域の平和確立のために軍を撤退させることも日本はいとわない、というかたちで妥協点を見出すものでした。なお、この時点では日本軍をどこから撤退させるのかについては明示されていませんが、やがてこれは南部仏領インドシナからの撤退ということに具体化し、「乙案」は、7月末の南部仏領インドシナ進駐と米英による日本資産凍結が実行される以前の状態に御互いに引き戻す、という明確な提案になります。
このページを閉じる