日米交渉 資料解説
昭和16年(1941年)11月1日
第66回大本営政府連絡会議(議題:国策遂行要領再決定、対米交渉要領決定)
資料1:昭和16年10月31日(『機密戦争日誌 其三』188画像左〜189画像)
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資料2:十一月一日(土)午前七時半ヨリ一時間 東郷陸相ト杉山総長トノ会談要旨(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)103画像左〜106画像)
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資料3:十一月一日自午前九時 十一月二日至午前一時半 第六十六回連絡会議 国策遂行要領再検討之件(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)107画像左〜116画像右)
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資料4:別紙 対南方国策遂行ニ関スル件(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)117画像左〜118画像)
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資料5:別紙 乙案(十一月一日午後十時連絡会議ニ於テ外務省提案セルモノ)(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)119画像左〜120画像右)
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資料6:「十一月二日両総長及総理列立上奏ニ方リ〔原文ママ〕総理上奏資料 十一月一日連絡会議概況」(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)122画像左〜131画像)
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資料7:塚田次長所感(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)120画像左〜121画像)
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資料8:昭和16年11月1日(『機密戦争日誌 其三』190画像〜192画像右)
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資料9:昭和16年11月2日(『機密戦争日誌 其三』193画像〜197画像右)
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 昭和16年(1941年)11月1日、大本営政府連絡会議が開かれ、10月23日からの7回にわたる会議で進めてこられた「国策遂行要領」の再検討について、その結論が出されました。
 まず、10月30日の連絡会議において東条総理大臣から提示された、

1、戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
2、開戦を直ちに決意し、政戦両略の諸施策をこの方針に集中する
3、戦争決意の下に、作戦準備を完整すると共に、外交施策を続行して妥結に努める

という3つの方針案について検討が行われました。
 資料1は、この会議の前日の『機密戦争日誌』の記述です。これによれば、参謀本部は10月31日午後の部長会議において、「即時対米交渉断念開戦決意。十二月初頭戦争発起、今後ノ対米交渉ハ偽装外交トス」という第2案の結論に達しています。また、陸軍省は「一面戦争一面交渉」案(第3案)であり、これは「海外(原文ママ:海軍と外務省のこと)ヲ戦争ニ引キズリ戦争ヘト誘導スル為ノ政治的含ミ」を持たせた案である、とも記されています。
 資料2は、この会議に先立って行われた、東条陸軍大臣(兼総理大臣)と杉山参謀総長との会談の要旨です。この会談では杉山が、外交交渉の成功により準備した兵力を撤退させることは、兵の士気に関わることなので、連絡会議では、「(イ)国交調整ハ断念スル、(ロ)戦争決意ヲスル、(ハ)戦争発起ハ十二月初旬トス、(ニ)作戦準備ヲスル、(ホ)外交ハ戦争有利ニナル様ニ行フ」と主張するつもりである、と発言しています。これに対し東条は、統帥部が主張することを止めることはしないが、天皇に納得してもらうことは容易ではないと思う、と答えています。
 資料3は、この連絡会議の会議録です。この資料によれば、この会議は最終結論を得るべき会議であったので、17時間連続で行われ、翌11月2日の午前1時半までかかっています。第1案についての審議では、まず、賀屋大蔵大臣、東郷外務大臣が、アメリカが戦争を仕掛けてくることはないと考えられるので、今戦争をする必要はない、と主張しています。これ対し永野海軍軍令部長は「今!戦機ハアトニハ来ヌ」と強く反論しました。さらに鈴木企画院総裁も、昭和18年(1943年)になれば、物資の面からも戦争をした方が良くなり、また統帥部も時日を経過すれば戦略上の状況は悪化すると言っているのだから、戦争をした方が良いということになる、と述べて、賀屋、東郷の説得にあたった、と記されています。しかし、賀屋は最後まで納得しなかったことも、この資料には書かれています。次に第2案については、賀屋と東郷は何とか最後まで外交を行ないたいと訴え、「外交ヲ誤魔化シテヤレト言フノハ余リヒド」いと述べました。これに対し塚田参謀次長が、「開戦ヲ直ニ決意ス」、「戦争発起ヲ十二月初頭トスル」の2点を決定すべきことを主張しています。また、外交交渉の期限については、海軍は11月20日まで、陸軍は11月13日までとするよう、それぞれ求めています。これに対し、東郷が期日・条件ともに見込がない状態では外交交渉は不可能である、と述べたところ、外交交渉の期日や条件などの議論の必要性から、第3案も併せて審議することとなりました。第3案の審議では、まず、外交交渉の期限について議論が行われ、塚田は11月13日を期限とすることを強く主張しました。これに対し、東郷は海軍の意向を受けて11月20日を主張し、東条と共に、外交交渉成立の場合には戦争の発起をやめることを、統帥部に請け負ってもらいたい、と求めました。これに対し、塚田、杉山、永野らが、それは統帥を危うくするものである、と反対しました。ここで、議論は膠着状態に陥り、20分間の休憩をとることとなりました。この休憩時間中には、陸軍の杉山、塚田、田中新一参謀本部第一部長(作戦)の3名が協議を行い、11月30日までの外交交渉継続は可、との結論に達しました。会議再開後には、できるかぎり長く外交をやりたいとして東条が12月1日期限を提案したのに対し、塚田は、11月30日以降の期限を断固として拒絶しました。ここで嶋田海軍大臣が30日の夜12時までならばよいだろうと述べたところ、塚田もこれに同意し、外交交渉の期限は12月1日午前0時(東京時間)と決することになりました。次いで、外務省の提示による「甲案」「乙案」の検討に入りました。「甲案」は従来の対米交渉案を若干緩和した程度のものであったので、ここでは「乙案」が問題となりました。外務省案の「乙案」では、中国問題については全く触れられておらず、仏領インドシナからの日本軍撤兵とアメリカによる資産凍結の解除とが交換条件として提示されていたので、陸軍側はこれに強く反対しました。その結果、通商を資産凍結以前の状態に回復し、石油の輸入も保障するよう改め、日中戦争(支那事変)の解決に向けた日中両国間の取り組みをアメリカが妨害しない、という条項も付け加えることとなりました。しかし、仏領インドシナからの撤兵問題を外交交渉上不可欠な点であると東郷が主張したのに対しては、杉山と塚田は強く反論しました。この方向性で議論が進めば、東郷が辞職し内閣が倒れる可能性があると考えた陸軍側は、こうした事態を防ぐために、また同時に、中国問題を条項に加えた以上は「乙案」による交渉成立は無理であるとも判断し、仏領インドシナからの撤兵についてしぶしぶ同意しました。こうして、日本側最終案としての「乙案」が決定されました。
 資料4は、この会議の第2案審議の冒頭に提示された参謀本部案です。資料3によれば、これに対しては全く反論はありませんでした。
 資料5は、この会議において示された「乙案」の外務省原案です。
 資料6は、この会議の内容を翌日、東条、杉山、永野が天皇に上奏した際の、東条に用意された資料です。連絡会議における議論の概要がまとめられています。
 資料7は、当時の情勢についての塚田の判断が記された資料です。この中で塚田は、今戦争をせずとも来年か再来年の問題であり、戦機は今しかない、と述べています。また、日本が南進することにより、ドイツがイギリスを屈服させる公算も大きくなり、日本が中国を屈服させる可能性も大きくなる、としています。さらに、南方を押さえれば、アメリカの国防資源にも大打撃を与えることができるので、すぐに鉄壁の防衛態勢を築いてその中で「敵性国家」を各個撃破し、アメリカ、イギリスも倒すべきであると主張しています。
 資料8、9は、この会議当日の『機密戦争日誌』の記述です。まず、会談に先立って行われた東条・杉山会談における東条の発言について、近衛内閣を総辞職に追い込んだ際の東条の態度を引きつつ、これは「大臣ノ変節」であるとし、「東条陸相カ総理トナルヤ オ上ヲ云々シテ決心ヲ変更シ近衛ト同様ノ態度ヲ取ルトハ抑々如何」、「大臣ヲ説得シ所信ヲ断行スルノ誠意ト節操ト努力トヲ忘却セリ」と非難しています。また、11月31日夜に行われた東条、嶋田会談において、嶋田が日本の生産量ではまかなえないほどの物資を要求したとして、「「海軍ハ海軍アルヲ知リテ国家アルヲ知ラザル」ノ言ハ至言ナルカナ」、「「戦争ハ出来ヌノ責任ヲ政府ガ物ヲ呉レナイカラ」ト云フニ他ナラズシテ何ゾ」と海軍の姿勢を批判しています。連絡会議については、東郷の姿勢が、仏領インドシナからの即時撤兵に「同意セザレバ外相ハ止メルト云フ 開戦セザルヲ可トスノ如キ態度ナリ」という強硬なものであったことが記されています。そして、その結果対米交渉条件を譲歩し、とにかく開戦決意と戦争準備の促進の措置をとることに一致した、と書かれています。さらに、このような結果にいたった原因は、「総理ノ指導力」がないために「閣内ノ結束」に「何等ノ事前工作」がなく、「組閣ニ於テ」も「何等ノ約束モナ」いことであって、「電撃組閣ヲ誇リタルモ弱体内閣ノ根本ハ組閣ノ軽率ナルニ在」ると、東条内閣のあり方を批判しています。
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