昭和16年(1941年)9月30日
豊田外務大臣、野村大使に対し、「日米国交調整案」への野村の意見について回答
|
|
 |
資料1:B02030719500 17 昭和16年9月28日から昭和16年9月30日(21画像左〜22画像)
「昭和十六年九月三十日豊田大臣発野村大使宛公電第六一四号(館長符号)(原議)」
|
 |
 |
 |
資料2:B02030729800 24 九月三十日発訓電野村大使ノ質問二対スル回訓(15画像〜17画像)
「昭和十六年九月三十日豊田外務大臣発野村大使宛公電第六一四号(外機密、極秘)(旧案)」
|
 |
 |
 |
資料3:B02030744400 7 昭和16年9月25日から昭和16年10月2日(25画像〜28画像)
「〔昭和十六年〕九月三十日豊田大臣発野村大使宛公電第六一四号(外機密)(極秘)(写)」
|
 |
 |
 |
資料4:B02030738700 9 外交資料 日米交渉記録ノ部 日米交渉資料(三) 第三次近衛内閣時代(下) 2(18画像〜19画像)
「九一、九月三十日豊田大臣発野村大使宛電報第六一四号(我方提案ニ関スル説明ノ件)」
|
 |
 |
 |
資料5:昭和16年9月30日〜昭和16年10月1日(『機密戦争日誌 其三』151画像〜153画像右) |
 |
 |
|
昭和16年(1941年)9月30日、豊田外務大臣は野村駐アメリカ大使に対し、同28日の野村発第八六五号電報(9月28日の野村より豊田への意見具申についての資料解説を参照)への返答を電送しました。
資料1は、この電報が実際に送られた時の原議(原稿)と思われるもので(ただし資料は中断)、修正の書き込みが多数施されています。
資料2は、これとは筆跡・内容とも異なった書き込みの見られるもので、電文の草稿が練られた段階のものと考えられます。
これに対し、資料3はその写しで、資料1に見られる書き込みを反映したものとなっており、ここにさらに施されている書き込み(『外交資料』の原稿とした際のものと思われる)を反映した上で『外交資料』(昭和21年編纂)に収められたものが資料4です。
ここで豊田大臣は、この時点での「日本国「アメリカ」合衆国国交調整ニ関スル了解案」の提出について野村大使が示した危惧に対し、「全然同感ナリ」と述べ理解を示しています。その上で豊田は、当初より日本側もアメリカの6月21日の案を基礎として交渉を進めるつもりであったが、その後の状況変化を受けて大局的な解決の促進を目指した豊田大臣による提案がなされ(9月4日)、これを6月21日案に織り込みつつ内容を変えないかたちで「了解案」を出したので、アメリカ側が希望するならば、この「了解案」を基礎として今後の交渉を進めることには差し障りはないつもりである、と説明しています。続いて豊田は、野村が「了解案」の内容について示した疑問点にそれぞれ回答していますが、これについては、アメリカ側から質問があった場合に、ここで回答を挙げている点についてのみ応じるように、と指示しています。こうした豊田の回答内容については、書き込みの異なるいくつかの段階のものが存在していることから(資料1〜資料3を参照)、恐らくは複数の人々によって推敲された上で整えられたものと考えられます(『機密戦争日誌』では「陸海外局長間ニ…協議ヲ進メ打電セルガ如シ」と記述:資料5及び下記を参照)。
この時の野村大使と豊田大臣との遣り取りについては、『機密戦争日誌』でも注目されています(資料5)。まず、9月30日付けの記述において、野村大使から「了解案」手交の報告があったことが述べられ、続いてこの「了解案」に対する野村大使の疑問が紹介されています(1画像目中ほどより)。10月1日付けの記述では(2画像目より)、陸海軍及び外務省の各局長の間で議論が交わされ、9月30日午後のうちに野村大使に対して返事の電報(上記の豊田大臣発第六一四号電報のことと思われる)が打たれたようだとしています。やがてこの電報の内容が判明したところ、「大ナル支障アリ 即チ連絡会議決定条件ヲ更ニ緩和譲歩スルガ如キ作文」であったと述べ、この電文と、その作成に加わったとされる軍務局長に対して反感が表されています。そして、結局のところ、軍務局長と外務省との間で申し合わせた上で、この電報の内容を修正する電報を改めて打つことにし、軍指導部より陸軍省に対して、次いで大本営政府連絡会議(10月2日開催、これについての資料解説を参照)の席上で、その要望を行なうことに決まったと述べられています。
|
 |