日米交渉 資料解説
昭和16年(1941年)9月28日
野村大使、本国に対し、日米国交調整案の手交および同案に対する意見具申
資料1:B02030719400 16 昭和16年9月25日から昭和16年9月28日(17画像〜25画像)
「昭和十六年九月二十八日野村大使発豊田外務大臣宛公電第八六五号(極秘、館長符号、至急)(写)」
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資料2:B02030738700 9 外交資料 日米交渉記録ノ部 日米交渉資料(三) 第三次近衛内閣時代(下) 2(17画像〜18画像)
「九〇、九月二十八日野村大使発豊田大臣宛電報第八六五号(我方提案ニ関スル意見具申ノ件)」
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 昭和16年(1941年)9月28日、野村駐アメリカ大使は豊田外務大臣に対し、「日本国「アメリカ」合衆国国交調整ニ関スル了解案」(同25日に豊田大臣発野村大使宛電報第五九五号として送付)を手交(米時間27日)したことを報告しました。
 資料1はこの時の電報の写しです。なお、資料1は文字が薄いため、内容については『外交資料』(昭和21年編纂)に収められた資料2が参考になります。
 これによれば、「了解案」は松平康東駐アメリカ大使館一等書記官の手によってバレンタイン米国務省参事官に手交され、この時、ハル米国務長官に伝えてくれるように頼んだとあります。これに続いて、「了解案」についての野村大使自身の意見が述べられています。野村は現状について、既に日本側からは言うべきことをすべてアメリカに伝え、先方の反応を待っている状態だと指摘し、その上で、「我方トシテハ先方ノ何分ノ回答ニ先立チテ此ノ際余リ種々ノ文書ヲ提出スルコトハ各文書間ノ関係ヲ不明瞭ニシ徒ニ問題ヲ紛糾セシメ交渉ノ進捗ニ有害ナル影響ヲ及ボスニアラサルヤヲ惧ルル次第ナリ殊ニ各文書カ矛盾シ居ルカ如キ個所ヲ包含スルニ於テハ我方ノ真意ニ迄不要ノ疑惑ヲ招ク惧アリ」と述べ、新たに日本側から「了解案」を提出することに対し危惧を示しています。また、アメリカ側の姿勢の基本は6月21日(米時間)に提示された案(6月22日の野村・ハル会談についての資料解説を参照)であることを指摘し、「貴方ニ於テ御折衝ノ際ハ此ノ「ライン」ニ依ラレンコト切望ニ堪ヘス」と述べつつ、この見地から「了解案」についての疑問点を列挙しています。
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