昭和16年(1941年)7月31日
野村大使、ウェルズ米国務長官代理と会談、ウェルズはツツイラ号事件に関する文書を手交 |
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資料1:B02030726100 17 昭和16年8月28日から昭和16年8月29日(2画像)
「昭和16年7月31日野村大使発豊田外務大臣宛公電第六二四号(外機密、館長符号)」 |
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資料2:B02030749200 野村大使報告書/3(11画像左〜12画像)
「七月三十日「ウェルズ」ト会談」 |
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資料3:B02030737400 14 外交資料 日米交渉経緯ノ部 第三次近衛内閣(豊田外務大臣)中ノ交渉経緯(7画像左〜8画像右)
「第四、「ツツイラ」号事件」 |
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昭和16年(1941年)7月30日午前11時45分(米時間)、野村駐アメリカ大使はウェルズ米国務長官代理を訪問し、ツツイラ号事件に関する会談を行ないました。ツツイラ号事件とは、昭和16年(1941年)7月30日、重慶近郊の長江に碇泊していたアメリカ砲艦ツツイラ号付近に、重慶を爆撃していた日本軍機から投下された爆弾が着弾し、ツツイラ号が破損したという事件です。
資料1は、野村大使から豊田外務大臣に宛てられた、ツツイラ号事件についての見解です(英文)。
資料2は、野村が帰国後の昭和17年(1942年)に執筆した在米任務報告書で、会議の具体的内容について報告されています。これによれば、ウェルズはこの会談で文書を野村に手交し、大統領の命であるとして、パネー号事件の時には日本政府の保証があったことを指摘しました。さらに、ウェルズは、日本軍がこのような爆撃の権利があるかどうかを問いただし、ツツイラ号及びアメリカ大使館が長江対岸の安全地帯にあったことを強調しています。これに対し野村は、ウェルズがあまり大真面目なので、むしろこの事件を軽く取り扱うことを提案したとしています。さらに、野村はウェルズに対して、戦争の最中でこのような事件はありがちであり、根絶することは難しいと回答しました。そして、この事件を小さな事件として扱うことにし、とにかく政府への報告を約束したと述べられています。
資料3は、昭和21年(1946年)に外務省が編纂した日米交渉資料集のうち、ツツイラ号事件に関する記述箇所です。事件の概要と解決までの経緯を記述しています。
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