日米交渉 資料解説
昭和16年(1941年)7月28日
南部仏領インドシナ進駐
資料1:B02032437300 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/3 昭和16年7月7日から昭和16年7月16日(3画像〜5画像右)
「昭和十六年七月十二日高津総領事発松岡外務大臣第二五三号(外機密、館長符号扱)(写)」
「昭和十六年七月十四日高津総領事発松岡外務大臣第二五五号(館長符号扱、外機密)(写)」
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資料2:B02032437300 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/3 昭和16年7月7日から昭和16年7月16日(9画像〜10画像)
「〔昭和十六年〕七月十四日松岡外務大臣発在米野村大使宛公電第三六八号(機械館長符号扱、外機密、極秘)(写)」
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資料3:B02032437400 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/4 昭和16年7月15日から昭和16年7月18日(30画像左〜31画像)
「昭和十六年七月十八日起草松岡外務大臣発在仏加藤大使宛公電第二九四号 対仏印政策ニ関スル件(至急、極秘、館長符号扱、外機密)(写)」
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資料4:B02032437900 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/9 昭和16年7月23日から昭和16年7月24日(21画像)
「昭和十六年七月二十三日豊田外務大臣発在米野村大使宛公電第三九六号(大至急、外機密、館長符号)(写)」
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資料5:B02032437900 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/9 昭和16年7月23日から昭和16年7月24日(22画像〜26画像)
「昭和十六年七月二十三日豊田外務大臣発公電合第一五八七号 仏印南部進駐ニ伴フ宣伝方針ニ関スル件(外機密、極秘)(写)」
「昭和十六年七月二十三日豊田外務大臣発新嘉坡鶴見総領事・バタヴィア石澤総領事宛公電合第一五八八号 仏印南部進駐ニ伴フ宣伝方針ニ関スル件(外機密、極秘)(写)」
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資料6:B02032438100 1.南部フランス領インドシナ進駐、日仏印共同防衛交渉/11 昭和16年7月27日から昭和16年9月14日(16画像)
「昭和一六、七、二九 電報 仏印軍(秘)(写)」
「昭和十六年七月二十九日豊田大臣発ヴィシー加藤大使宛公電第三三二号 皇軍仏印進駐ニ関スル件(原議)」
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 昭和16年(1941年)7月28日、それまで準備を進めてきた日本軍は南部仏領インドシナへの進駐を実行しました。
 資料1は、これに先立ち、広東で進駐部隊の準備が進んでいることを報告する高津富雄在広東総領事から松岡外務大臣に宛てた2通の電報です(日付はそれぞれ7月12日、7月14日)。
 資料2は、松岡外務大臣より野村駐アメリカ大使に送られた(日付は7月14日)、南部仏領インドシナをめぐる状況(日本政府とヴィシー政府との交渉など)に対する見解と政府方針についての説明です。松岡から野村に対してこのような説明がなされているということは、この時期の仏領インドシナにおける日本の動きが、日米交渉の大きな焦点となっていたことを示していると言えます。
 資料3は、7月18日発の、松岡外務大臣から加藤外松駐フランス大使に宛てた電報です。この2日前の16日に第二次近衛内閣は解散しており、この時点では実際には松岡は大臣職を離れていました。この電報において松岡は、大臣が更迭されても南方政策には変更がないことを加藤大使に伝え、その方針を確認しています。
 資料4は、7月23日に豊田外務大臣より野村大使に宛てられた電報で、ヴィシー政府との間で21日に日仏印共同防衛の了解が成立したので進駐実施は28日頃と決定されたと伝えています。ここでは、進駐は相手国(フランス)との申し合わせの上で行われるものであるという前提を受けて、「平和進駐」という言葉が使われています。
 資料5は、上の資料の電報と同じ7月23日に、豊田外務大臣から各地の大使や領事に宛てて発された2通の電報で、南部仏領インドシナ進駐の実施を控えて、日本政府がこれをどのように宣伝するか、その方針について説明しています。進駐時期が確定され、外交上の具体的な準備が進められていることがわかります。
 資料6は、7月29日に豊田大臣から加藤駐フランス大使に送られた電報で、前日の28日に先遣部隊が、29日に本部隊が「友好裡に」進駐を開始したと報告しています。
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