公文書に見る 日米交渉 〜開戦へ

の経緯〜
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近衛文麿 | 東条英機 |  松岡洋右 | 豊田貞次郎 | 東郷茂徳 | 野村吉三郎
近衛文麿
(『近代日本人の肖像』提供)

近衛文麿(このえ ふみまろ)
明治24年(1891年)10月2日〜昭和20年(1945年)12月16日
 政治家。日米交渉開始当時の内閣総理大臣。五摂家の筆頭近衛家の長男として東京に生まれました。当初は、哲学を志して東京帝国大学哲学科に進学しましたが、まもなく京都帝国大学法科大学に転じ、河上肇らの指導を受けました。大正5年(1916年)に、貴族院議員となり、政治家としてのキャリアをスタートさせました。大正8年(1919年)には、西園寺公望全権の随員としてパリ講和会議に出席しました。昭和6年(1931年)には、貴族院副議長、昭和8年(1933年)に、貴族院議長を務めています。昭和11年(1936年)の2・26事件直後に組閣を命じられていますが、この時はこれを辞退しています。昭和12年(1937年)6月に総理大臣として第一次近衛内閣を組閣しました。組閣直後の7月、盧溝橋において日中両軍が交戦状態に入りました(日中戦争)。昭和13年(1938年)1月16日に南京国民政府に対して、「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明し、日中間の外交関係を事実上断絶しました。その後昭和14年(1939年)1月に内閣総理大臣を辞職し、翌年6月枢密院議長となると、挙国一致の新しい政治体制の創出を目指す「新体制運動」に乗り出すことを声明しました。同年7月に、再び総理大臣として第二次近衛内閣を組閣すると、9月の閣議決定に基づき、10月に全国的な行政補助機関である大政翼賛会を成立させました。第二次近衛内閣では、外務大臣に松岡洋右を据え、日独伊三国同盟を締結させました。なお、昭和16年(1941年)7月には、外務大臣を豊田貞次郎に替えて、第三次近衛内閣を組閣しますが、同年10月の総辞職に至りました。
東条英機
(『近代日本人の肖像』提供)

東条英機(とうじょう ひでき)
 明治17年(1884年)12月30日〜昭和23年(1948年)12月23日
 政治家・陸軍軍人。日米開戦当時の内閣総理大臣。陸軍軍人の東条英教の三男として生まれ、明治38年(1905年)に陸軍士官学校を卒業しました。大正元年(1912年)に陸軍大学校に入学し、大正4年(1915年)に卒業した後、大正10年(1921年)から大正11年(1922年)にかけてドイツに駐在しました。昭和12年(1937年)には関東軍参謀長に就任した後、昭和13年(1938年)には陸軍次官ついで航空総監兼航空本部長につき、昭和15年(1940年)7月からは第二次・第三次近衛内閣の陸軍大臣を務めました。昭和16年(1941年)10月に近衛内閣が総辞職すると、近衛文麿に替わって内閣総理大臣に就任しました(陸軍大臣、内務大臣を兼務)。東条内閣は、日米交渉を継続しつつ、戦争の準備を進め、ついに同年12月8日に日米は戦闘状態に入ります。
松岡洋右
(『近代日本人の肖像』提供)

松岡洋右(まつおか ようすけ)
明治13年(1880年)3月14日〜昭和21年(1946年)6月27日
 政治家・外交官。日米交渉開始当時の外務大臣。山口県に生まれ、12歳から22歳まで、アメリカにおいて皿洗いなどをしつつ苦学生活を送りました。オレゴン州立大を卒業して明治35年(1902年)に帰国し、明治37年(1904年)には外交官試験に合格しています。同年秋に領事官補として上海に勤務して以後、大正10年(1921年)6月に、外務省を辞任するまで、外交官時代の大半を中国で過ごしました。外務省辞任の翌月には、南満州鉄道会社に理事として入社し、いったんはここからしりぞくものの、昭和2年(1927年)4月には同社副総裁に就任しました。昭和7年(1932年)12月、国際連盟特別総会に日本の首席代表として出席し、満州国の承認を求めた演説を行ないました。なお、同総会では満州国を否認した議案が採択され、これが翌年の日本の国際連盟脱退に繋がりました。昭和15年(1940年)7月に第二次近衛内閣の外務大臣に就任し、同年9月の日独伊三国同盟調印や、翌年4月の日ソ中立条約の成立につとめましたが、昭和16年(1941年)7月の第二次近衛内閣総辞職の際に大臣職を辞任しました。
豊田貞次郎(とよだ ていじろう)
明治18年(1885年)8月7日〜昭和36年(1961年)11月21日
 政治家・海軍軍人。第三次近衛内閣当時の外務大臣。東京外語学校英語科中退を経て、明治35年(1902年)11月に海軍兵学校に入学しました。明治38年(1905年)11月にこれを卒業した後、明治44年(1911年)12月より大正3年(1914年)10月までイギリスで駐在武官として勤務しました。大正12年(1923年)からは駐イギリス大使館付武官となり、昭和2年(1927年)のジュネーヴ軍縮会議及び昭和4年(1929年)の第一次ロンドン軍縮会議において全権随員を務めました。昭和15年(1940年)9月、及川海軍大臣の下で海軍次官となり、日独伊三国同盟条約締結に関する海軍内の調整に当りました。昭和16年(1941年)7月に松岡前外務大臣の後を受けて、第三次近衛内閣の外務大臣に就任し、日米交渉において近衛内閣総理大臣ルーズヴェルト米大統領との直接会談の実現を目指しましたが失敗しています。同年10月の近衛内閣総辞職の際に大臣職を離れました。
東郷茂徳
(『近代日本人の肖像』提供)

東郷茂徳(とうごう しげのり)
明治15年(1882年)12月10日〜昭和25年(1950年)7月23日
 政治家・外交官。日米開戦当時の外務大臣。鹿児島県に朴氏の長男として生まれ、5歳の時に東郷姓に変わりました。大正元年(1912年)12月、外交官・領事官試験に合格、外務省に入省しました。大正12年(1923年)1月、欧米局第一課長に就任、主として対ソ連交渉にあたり、日ソ基本条約の締結に尽力しました。昭和8年(1933年)2月、欧米局長に就任(昭和9年のアメリカ局設置に伴い、欧亜局長に)、この間、日本とドイツの間に防共協定締結問題が起こり、東郷はこれに反対しました。昭和12年(1937年)10月に特命全権大使としてドイツに赴任しました。在任中に、日独防共協定強化問題が起きました。ドイツ側はこれを東郷大使にではなく、大島浩陸軍武官に内々に提議してきました。翌年10月、駐ソ連大使に転任し、日ソ漁業交渉、ノモンハン事件停戦交渉などに努めるとともに、日ソ中立条約交渉を進めました。昭和15年(1940年)8月、松岡洋右外務大臣より帰国命令を受けて11月に帰国後、松岡大臣から辞職勧告を受けましたが、これを拒否しました。昭和16年(1941年)10月18日、東条英機内閣の外務大臣兼拓務大臣に就任しました(拓務大臣は12月2日に伊野硯哉に交代)。昭和16年(1941年)11月5日の第7回御前会議において、いわゆる「甲案」・「乙案」の決定をみ、これをもって対米交渉にあたりましたが、結局、内外の状況を打開できず、同年12月8日の日米開戦をむかえることとなりました。
野村吉三郎
(毎日新聞社提供)

野村吉三郎(のむら きちさぶろう)
明治10年(1877年)12月16日〜昭和39年(1964年)5月8日
 外交官・海軍軍人。日米開戦当時の駐アメリカ大使。 明治31年(1898年)12月に海軍兵学校を卒業、明治34年(1901年)にはイギリスで建造された戦艦「三笠」を日本に回航する任を負った後、大尉として日露戦争(明治37年(1904年)〜明治38年(1905年))に従軍しました。 明治41年(1908年)3月から3年半にわたりオーストリア及びドイツに駐在し、帰国後の大正2年(1913年)2月には、第二次西園寺公望内閣の斎藤実海軍大臣の下で海軍省副官兼海軍大臣秘書官を努めました。 第一次世界大戦が勃発した大正3年(1914年)12月から駐アメリカ大使館付武官として勤務(〜大正7年(1918年)8月)、大正8年(1919年)にはパリ講和会議に全権随員として参加し、大正11年(1922年)から翌年にかけてのワシントン会議でも加藤友三郎全権に随行しました。 昭和14年(1939年)7月にアメリカより日米通商航海条約廃棄が通告されると、アメリカでの経験やルーズヴェルト大統領、スターク海軍大将といった要人との親交を見込まれ、阿部信行内閣において外務大臣に任命されます(同年9月)。 外相としての野村は、日米の関係改善を目指してグルー駐日アメリカ大使との交渉に従事しましたが、好ましい結果は得られず条約は失効に至りました。 その一方で、国内においては、貿易省設置の是非をめぐって外務省内からの反発を受けることもありました。 昭和15年(1940年)に入ると阿部内閣の総辞職によって大臣職を退きますが、同年11月、日米関係のさらなる緊迫状況をむかえ、駐アメリカ特命全権大使に任命されます。 ワシントンに赴いた野村は、約1年にわたってルーズヴェルト大統領やハル国務長官との交渉を続け、日米両国間の関係打開に尽力しました。
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