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Q&A

アルミ二ウムって戦前からあったの?

はい、ありました。。アルミニウムは日本でも戦前から広く使用されていました。


軽量で軟らかく加工しやすいアルミニウムは、アルミホイルから電車の車体まで私たちの生活のいたるところにあふれています。


1880年代に工業的製造法が確立されたアルミですが、当初は強度が足らず食器・装飾品などに用途が限定されていました。


その後、20世紀の初めにジュラルミンなどのアルミ合金が開発されると、航空機や電線をはじめ用途が飛躍的に拡大したといわれています。


ジュラルミンとはアルミに銅とマグネシウムを加えた合金で、アルミ地金に比べ高い強度を有します。


ジュラルミンという名称は、二重(Dual)に添加した合金であることから付けられたものです。


日本人が初めてアルミに触れたのは1880年代でした。


1893(明治26)年には大阪砲兵工廠の太田徳三郎が、兵器の製造に用いることを目指して実施した礬素銅(ばんそどう)の試験結果を陸軍大臣大山巌に宛てて報告しています(Ref.:C10060381400)。


礬素銅とはアルミ(当時は礬素と呼ばれた)と銅を配合した合金で、実験結果から礬素銅は兵器鋳造の材料として優れているという見通しを伝えていました。


このようにアルミニウムは当初から軍用目的で使用された貴金属であり、アルミニウムの増産は日本の軍事的膨張と切っても切れない関係にありました。


アルミの国産化は1898(明治31)年から進められます。日本が必死になってアルミを生産しようとしたのは、20世紀の初頭に登場した航空機という新たな軍事技術が関係していました。


鉄に比べて軽いアルミは航空機の機体として必要であったのです。



画像1 アルミニウムの増産を訴える(『写真週報』第326号、1944年6月21日発行)(Ref.A06031092100

日本においては原材料であるボーキサイトの採掘が困難であり、かつ製造に必要な電力生産のための設備も不十分でアルミの生産には不向きでした。


原材料に関しては、朝鮮南部の全羅南道山清付近でボーキサイトの代用となる明礬石(みょうばんせき)がとれたため、明礬石を原料とするアルミの生産の研究が進められます。


しかし実戦で戦える航空機の必要性が高まった1930年代には、もろい明礬石のアルミは航空機材料には不適合とされてしまいます。


明礬石に代わって、住友アルミ精錬が新たにオランダ領東インドのビンタン島からボーキサイトを輸入することになったのは日中戦争がすでに始まった1938(昭和13)年2月のことです。


また電力に関しても、戦前の日本の電力は水力中心で諸外国に比べて電気料金が高い傾向にあり、日本で軽金属産業を成り立たせることは難しかったのです。


日中戦争以降、本格的な総力戦体制が形成される中、アルミは零式艦上戦闘機いわゆる零戦の機体材料であるジュラルミンの原料としてさらに需要が高まっていきます。


日本はアルミ地金を輸入に依存していましたが、日中戦争以降には外国からの輸入が滞り、1939(昭和14)年2月には「軽金属製造事業法」(Ref.:A14100759400)が制定されて本格的にアルミを含む軽金属の統制が始まりました。


アルミ・マグネシウム産業を許可制にして、免税や研究助成金で優遇するかわりに、政府の監督のもとに国防に協力させる生産体制を確立させていきます。


経済封鎖の中でのわずかな輸入と国内の代替原料でアルミの生産を続けてきた日本でしたが、太平洋戦争が始まるといよいよ苦しくなっていきます。


真珠湾攻撃の直後に日本軍が実施した1942(昭和17)年2月の蘭印作戦(現在のインドネシアであるオランダ領東インドの占領)は、一般的には石油を入手するための作戦であったと理解されています。


しかし同時にボーキサイトの確保も重要な目標でした。けれども、ビンタン、マラッカなどボーキサイトの生産地を占領してもアルミの生産は予定通りには進みませんでした。


蘭印から日本や台湾などのアルミ工場に原料を運ぶ途中で、輸送船の多くが沈没もしくは損傷してしまったためです。


もっとも悲惨であったのは1944(昭和19)年でした。


この年にはボーキサイト32万トンを含む45万トンの資源、原料の南方からの緊急還送が計画されていました。


そのうち沈没しなかったのはわずかに5万トンであったそうです。


1944年末には飛行機の機体に適さない明礬石を原料とするアルミ生産に戻っており、陸軍などではアルミに代わって木製飛行機を開発する悲惨な状況でした。


戦後、飛行機の生産禁止や価格統制によってアルミの生産は大きく落ち込み、家庭用器具など日用品の需要にこたえるだけになってしまいました。


日用品部門の需要から金属製品、産業機械、電力、電気通信などの部門へと需要が移り、生産量自体は1955(昭和30)年には太平洋戦争開戦時と同水準の6万トンにまで回復しました。


その後、1970年代に世界第3位となった日本のアルミ産業ですが、オイルショック以降は急激に衰退しました。


戦争が起こるたびに必要とされてしまうアルミの悲しい歴史は戦前も戦後も変わらなかったのかもしれません。

【 参考文献 】

  • 三和元『日本のアルミニウム産業 ―アルミニウム製錬業の興隆と衰退』三重大学出版会、2016年
  • 陳慈玉『近代台湾における貿易と産業―連続と断絶』御茶ノ水書房、2014年
  • 藤井非三四『「レアメタル」の太平洋戦争―なぜ日本は金属を戦力化できなかったのか』学研パブリッシング、2013年

【 参考資料 】

  • 「礬素銅試験報告の義に付申進」(Ref.:C10060381400
  • 「軽金属製造事業法制定ノ件ヲ定ム」(Ref.:A14100759400