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Q&A

公営の婚活サービス、戦前もあったの?

はい。国や市町村による婚活サービスの提供は1940年代に盛んとなり、1940(昭和15)年に厚生省による国立の優生結婚相談所が三越デパートに開設され、1941(昭和16)年に東京市結婚相談所が設置されました。


東京ではこの外にも、海外移住者を対象とする結婚相談所、傷痍軍人を対象とする軍事保護院東京府結婚相談所、愛国婦人会や働く婦人の会の結婚相談所、青少年団、日産むすび会など、多数の相談所が設けられています。


1943(昭和18)年の時点までに東京39か所、北海道から愛知までの15県だけで138箇所が作られました。





画像1 1925(大正14)年の「結婚保険」の宣伝ポスター(江戸東京博物館蔵)。子女の結婚に際して資金を受け取れる「結婚保険」が存在するほど、結婚はお金のかかるものでした。そこで「人口政策確立要綱」には、結婚費用の軽減と結婚資金貸付制度の創設が盛り込まれています。

四谷の東京結婚相談所所員の木村よしのによる『結婚相談所員の手記』1943(昭和18)年から、結婚相談所の現場を見てみましょう。


結婚相談所では一般的な結婚の仲介の外に、結婚資金の足りない者に対しては、厚生省内の国民優生連盟に結婚資金の借入れ方を斡旋します。


また、血族結婚や遺伝性のある血縁の者との結婚に関する悩み相談は東京銀座三越内の優生結婚相談所を案内しています。


海外婦人会や日満婦人会と連携して、外地の青年との結婚を斡旋することもあったようです。


大日本婦人会本部が傷痍軍人との結婚斡旋を行っており、傷痍軍人との結婚希望者には同会を紹介しています。


結婚成立を阻む干支の相性や家の方角の良し悪しなど「迷信」の存在に頭を痛めたり、結婚の簡素化という国策に沿って結納金を廃したカップルを嬉しく眺めたりしています。


木村相談員の日常から、結婚斡旋に国策が関係していること、多くの政府関係機関が連携して婚活サービスを提供していたことが見て取れます。





画像2 『写真週報』1942年4月、218号、「これからの結婚はこのやうに」(Ref.A06031081300、10画像目)

こうした公的な婚活サービスの背景にあったのは、いわゆる「産めよ殖やせよ」政策です。


戦時体制下に入り、「産児報国」「結婚報国」をスローガンに、総力戦に必要な人的資源を確保するための人口政策が始まったのです。


適齢期の男女をとにかく結婚させて子供を増やすことが人口政策の基本であるため、結婚の斡旋や紹介は単なる個人の商売や趣味ではなく、官民挙げての国策協力事業となったのです。


近代日本の生殖をめぐる政治を研究した荻野美穂氏はこうした事態を、「いわば「仲人国家」の誕生である」と述べています。




人口政策の内容をもう少し詳しく見てみましょう。


1941(昭和16)年に閣議決定された人口政策確立要綱は、兵力・労働力・「大東亜共栄圏」内への殖民人口の確保のため、内地人人口の「量的及質的の飛躍的発展」を目指すものでした。


「量」的発展については1950(昭和25)年における内地総人口1億人を目指し(1940(昭和15)年は7300万人)、初婚年齢を3歳引き下げて男性25歳、女性21歳とし、一夫婦の平均出生児数を1人増やして5人とする目標が定められました。


「人口の増加を図るには、まづ出生数を増加する必要がある。出生の増加を図るには、まづ結婚を促進する必要がある」(安井洋『結婚新道』広文堂、1942年、6頁)ということで、国を挙げての結婚奨励が行われるようになったのです。





画像3 『写真週報』1943年11月、298号、「子宝一家の総力集めて-表彰に輝く多子家庭-」(Ref.A06031089300、9画像目)

妊娠した女性の流産や死産を防ぐため、1942(昭和17)年に妊産婦手帳制が導入されました。


これが、今もある母子手帳の始まりです。


同時に助産婦(今の助産師)の資質向上、保健所と保健婦(今の保健師)の役割強化も行われました。


右の写真は1943(昭和18)年11月の『写真週報』に掲載された12人の子どもを持つ一家です。


厚生省は1940(昭和15)年5月に優良多子家庭表彰要綱を策定し、子ども10人を戦死や天災以外の原因で1人も死なせることなく育てた家庭を「優良多子家庭」として表彰することとしました。


一方「人口政策確立要綱」(Ref.A03023595500)は、人口の量だけでなく「質」の向上を目指すものでもありました。


1940(昭和15)年に制定された「国民優生法」(Ref.A14100850700、Ref.A14100958200)は、「悪性なる遺伝性疾患」があるとみなされた者の生殖を制限するともに、「健全なる素質を有する」者の産児制限を禁止することで、「国民素質の向上」を図るものでした。


このように総動員体制は、国家が人口政策として個人の結婚や出産に積極的に関与した時期であり、「結婚はもはや個人の私事ではなく、国民としての大切な義務」(前掲安井、6頁)と考えられるようになったのです。




敗戦後は一転して人口過剰が問題となります。


1947年から49年(昭和22年から24年)の第1次ベビーブームを経て、1950年代には人口抑制政策として「家族計画」が奨励され、夫婦あたり子どもは2人、夫が働いて妻は専業主婦という戦後家族の理想像が普及しました。


高度成長を経てさらに出生率が低下すると、今度は「少子高齢化社会の危機」がさかんに言われるようになって現在に至ります。


しかし、2003(平成15)年に制定された少子化対策基本法前文に「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが」とある通り、現在では結婚や出産は個人の選択であるという考え方が法の前提となっています。

【 参考文献 】

  • 安井洋『結婚新道』広文堂、1942年
  • 木村よしの『結婚相談所員の手記』興亜書院、1943年
  • 荻野美穂『「家族計画」への道-近代日本の生殖をめぐる政治-』岩波書店、2008年
  • 久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵『歴史を読み替える ジェンダーから見た日本史』大月書店、2015年
  • 近藤和子「女と戦争―母性/家族/国家―」、鶴見和子他監修、奥田暁子編『女と男の時空―日本女性史再考 Ⅴ 鬩ぎ合う女と男―近代』藤原書店、1995年

【 参考資料 】