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Q&A

奨学金って戦時中にできたってほんと?

はい、本当です。戦中期の教員の待遇改善問題をきっかけにできました。


奨学金とは、経済的な理由で高校や大学、専門学校などでの修学が困難な学生に学費の貸与または給付をする制度です。


現在、奨学金事業の規模において最も大きな主体となっているのが文部科学省所管の独立行政法人日本学生支援機構です。


その前身として設置されたのが大日本育英会でした。


同会は、1942(昭和17)年2月12日、第79帝国議会に、安達謙蔵ほか国民教育振興議員連盟によって「大東亜教育体制確立ニ関スル建議案」というものが提案されたことにはじまります。


この要望は13項目からなり、その第2項に「国民教育普遍化ニ対スル方策ノ樹立(興亜育英金庫制度創設)」という提唱がなされました。これがのちに「国家的育英制度創設」に関する提案となりました。


こうした提案が行われた背景には、1937(昭和12)年、1938(昭和13)年頃から、小学校教員の待遇が悪かったため、軍需産業の好況によって師範学校(教員養成学校)入学志願者が大量に工場に吸収されていたこと、また膨張する軍事費に起因するインフレーションによって、師範学校生徒の学費負担が増大していたことがありました。


また同議会では、この建議の説明にあたった永井柳太郎(のち財団法人日本育英会会長)が、教育の機会均等の理念を政治の観念と結びつけて、「大東亜共栄圏建設ノ大業ヲ担当スルニ足ル国民ヲ錬成センコトヲ欲スルナラバ、日本国民ノ大多数ガ貧富ノ如何ヲ問ハズ、斉シク高級ノ教育ヲ受ケ、其ノ天賦ノ良智良能ヲ発揮シ得ル教育制度ヲ確立スルコトガ、急務中ノ急務デアル」と奨学金制度の確立を訴えました。


国民教育振興議員連盟からは、国家的育英制度創設にあたって、まず問題となったのは貸費制によるべきか、給費制とすべきかでしたが、結局、「日本古来の家族制度尊重の立場に立ち、親の子を教育する責務を援助するものとする」、あるいは「国からの支出を最小限にとどめる」ことから、貸費制をとることとし、これを連盟の基本方針と定めました。


この構想では、戦争による国費の膨張を防ぐために貸費制をとること、資金は国民貯蓄である保険資金を運用すること、国は興亜育英金庫を創設して、政府が相当額を出資するとともに、民間育英資金団体は全部これに統合すること、貸与資金の財源は、民間の保険会社からの融資に仰ぎ、貸費制は身体強健であることを条件として、貸費開始のとき、生命保険に加入させて保険料をかけさせ、貸費学資金弁済の方法とすることとされました。


ただし、卒業後、兵役を終了し就職するまでは、育英金庫が代掛けする、この保険金代掛けには政府資金を運用する、金庫が貸費生に代掛けした保険料は、貸費生が卒業後、実社会に出て後、その部分に相当するものを金庫に「奉恩返金」する規則を作り、法的執行力を持たせる、というものでした。


その後、文部省専門教育局学芸課を中心に、政府原案の作成が進められ、1943(昭和18)年5月25日、官民合同による育英制度創設準備協議会を設置することが閣議決定され、創設準備はいよいよ本格化します。


同年10月1日、東條内閣は閣議において、財団法人組織の設立を決定し、これによって、昭和十九年度に設立されるべき特別法による国家的育英事業の運営方針・規模内容などを記した「育英事業実施要領」が作成されます。



画像1 大日本育英会の誕生 『週報』380号(1944(昭和19)年2月2日)(Ref.A06031053900

同年10月6日第二回育英制度創設準備協議会を開催して検討した結果、「大日本育英団(仮称)創設要綱」が満場一致で決定されました。会長には永井柳太郎が就任し、彼の発議により、同年10月14日の文部省首脳部や団体役員との打ち合わせで、名称を「財団法人大日本育英会」とすることが正式に決定され、同年10月18日に設立が許可されたのでした。


本会奨学生の対象は日本帝国臣民で、中等学校以上の、法律に定める学校に在学するものとされ、「優秀ナル素質ト才能トヲ有シ乍ラ経済上ノ理由ニ依リ進学ノ機会ニ恵マレザル多数ノ学徒」を対象に奨学金を貸与することとなっていましたが、「優秀ナル学徒」とは、必ずしも全学科が優秀でなくても、ある特定の学科については他の追随を許さない才能を持ち、将来これらの方面に進んだならば大成を期すような学生も含まれ、経済的困難度についても、家計の状況をただ機械的に考えるのではなく、家計と教育費との均衡を考慮に入れ、たとえば中流の家庭であっても、優秀な師弟が多数在学していて、学費がかさむ場合は、採用の対象となることとされました。


貸与する学費の金額は、父兄その他の援助なしで修学できる金額を目標とし、基本的には学資の全額を負担するという考え方でした。


終戦後の経済的混乱の中、1947(昭和22)年には、進学保障と育英の両方を目的とした予約採用制度を中止し、在学生にも必要に応じて貸与されることになります。ただ、当時の採用人数の拡大はあくまでも予算措置として実施されたものであり、法改正等を伴う制度的対応としてなされたものではなかったのです。



画像2 大日本育英会の年度別奨学金貸与人数(出典:白川【2012年】より引用)

その後、1949(昭和24)年、奨学および奨学制度に関する事項等を調査審議、再検討することを目的に設置された学徒厚生審議会からの答申では、採用率と貸与月額を引き上げるための予算増額の要請にとどまり、抜本的な改革は行われませんでした。


1953(昭和28)年の法改正により、大日本育英会から日本育英会への名称変更が行われたことに伴い、奨学金の給付制度は見送られたものの、ようやく特定職業就職者(当初は義務教育段階の教育職)への返還免除制度が導入されたのでした。

【 参考文献 】

  • 日本育英会編『日本育英会十五年史 創立十五周年記念』1960年
  • 白川優治「戦後日本における公的奨学金制度の制度的特性の形成過程―1965年までの政策過程の検証を中心に―」(『広島大学高等教育研究開発センター大学論集』第43集(2011年度)、2012年3月

【 参考資料 】