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Q&A

戦前と戦後で「就活」はどう変わったの?

リクルートスーツに身を包み、「就活」(就職活動)にはげむ学生たち。


この光景は、実は戦前と戦後でそれほど大きく変わっていません。


いつの時代も、学生にとって就職は人生の一大事でした。




現在のような学生の「新卒採用」が始まったのは、1910年代頃といわれています。


それまでは、親戚や知人の紹介で、工場や商店の奉公先を探す方法が一般的でした。


しかし、近代化とともに職業の種類が増え、また義務教育の普及によって学生の高学歴化が進むと、世の中の就職事情は大きく変化します。


会社は優秀な学生を早めに確保しようと、卒業前に入社選考を行うようになりました。


学校からの推薦者を履歴書と面接で審査し、採用の「内定」を出すのです。


一方、学校側も職業教育に力を入れ始めます。


各市町村の職業紹介所と提携して、学生に就職先を斡旋するだけでなく、「自己省察」(自己分析)や「職業体験実習」(インターン)を通じて、「職業精神」や「適職」の選び方を指導しました。


1927(昭和2)年には全国の小学校で職業教育が必修化され、学校と会社が連係する日本独自の「就活」システムができあがります。





画像1 「中学校・実業学校・女学校生の「希望職業」(1933年)」〔大阪府中等学校校外教護聯盟編『中等学生の思想に関する調査3』(1934年)より作成〕

では、戦前の学生には、どのような職業が人気だったのでしょうか。


まず、男子学生の花形職業は、なんといっても軍人か医者でした。


実業学校の学生はもう少し現実的で、商業者・実業家や会社・銀行員の志望者が多くみられました。


また、女子学生には教師が人気でした。


一方、大学・高等専門学校生の大部分は、官僚や高度な専門職、もしくは大手企業の社員を目指しました。


人気の高い就職先は、やはり銀行・財閥系商社・新聞社で、その入社競争率は数十倍にも上ったそうです。




1930(昭和5)年に昭和恐慌が起こると、学生たちは厳しい就職難に直面しました。


小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」で描かれたように、大学・高専卒でも就職口がなく、特に文系大学生の就職率は38%まで落ち込みました(1934年時点)。


東京帝国大学の教授が教え子のため、自ら職業紹介所に並んだというエピソードもあります。


就職戦線はますます激しさを増し、卒業前の1年間は「就活」に専念することが当たり前となりました。


学生はみな就職マニュアル本片手に対策に追われ、なかには職を求めて中国大陸や満洲へ渡る若者もいました。




皮肉なことに、こうした就職難は戦争によって終わりを告げます。国の労働統制が始まったためです。


1938(昭和13)年4月、「国家総動員法」にもとづき、「職業紹介法」が改正されると(Ref.A03022165199)、それまで市町村営だった職業紹介所は全て国営化され、1941(昭和16)年には国民職業指導所に改称されました。


また、「国民労務手帳法」(昭和16年3月6日法律第48号)(Ref.A14100952300)により、14~59歳の軍需産業従事者には国民手帳が交付され、経歴・技能・賃金の記入と国民職業指導所への登録が義務づけられました。





画像2 「未来の文学士も――兵器技術の実物訓練」〔『写真週報』287号(1943年9月1日)、Ref.A06031088200、7画像目〕

同時に、従来の「就活」システムも変わります。


「学校卒業者使用制限令」(昭和13年8月17日勅令第599号)(Ref.A02030076300)により、新卒者の就職先は全て厚生省が調整し、軍需産業へ優先配置されるようになりました。


さらに、「学校技能者養成令」・「工場事業場技能者養成令」(昭和14年3月30日勅令第130・131号)(Ref.A03022347700A03022347800)において、学生には「適職」よりも「応職」が強調され、どの職業にも「勤労精神」をもって順応し、「国家の要望に適合」することが求められました。




さらに、戦局が悪化すると、1944(昭和19)年1月の閣議決定「緊急学徒勤労動員要綱」が出され、学校と工場が直接連係して、いつでも学生を労働力として動員する体制がつくられました。


「学徒勤労令」(昭和19年8月22日勅令518号)(Ref.A03022306500)が発令されると、中学校以上の学生は男女問わず、工場で兵器や食料の生産に従事しました。


学生たちはいっさいの職業選択の自由を奪われ、「お国のため」に働くことが義務付けられたのです。




戦後、経済が復興し高度経済成長が始まると、再び戦前の「就活」が復活します。


都市部では学生の獲得競争が過熱し、地方から都市部への「集団就職」が行われ、東京の上野駅には学生服を着た「金の卵」たちが集まりました。


一方では、大学生の「青田買い」が問題になります。


1953年、文部省・企業・大学の間で、入社選考の開始日を10月1日とする「就職協定」が定められました。これが、現在の「内定式」のはじまりです。


しかし、実際にこの協定はなかなか守られず、「就活」の開始時期はますます早まりました。


1990年代、バブル経済が崩壊すると、今度は就職氷河期がおとずれます。


1996年には「就職協定」も廃止され、代わりに企業と学校が「倫理憲章」を設け、就職活動の日程を決めることになりました。




こうして現在もなお、入社選考の日程や方法は年々変わり続けています。それでも、学生たちは昔と同じように「就活」に励むのです。

【 参考文献 】

  • 青柳邦彦『最新就職読本』(山陽社、1935年)
  • 大阪府中等学校校外教護聯盟編『中等学生の思想に関する調査3』(1934年)
  • 中央職業紹介事務局編『知識階級就職に関する資料』(1935年)
  • 難波功士『「就活」の社会史――大学は出たけれど…』(祥伝社新書、2014年)
  • 菅山真次『「就社」社会の誕生――ホワイトカラーからブルーカラーへ』(名古屋大学出版会、2011年)