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Q&A

バナナが高級品だったってホント?


画像1 台湾西部・員林のバナナ市場(Ref.A06032560200

本当です。


現在、比較的安価なフルーツとして、そのまま、もしくはスイーツの材料などとして広く食されているバナナですが、かつて日本では贈り物やお見舞いの品などとして、ごく限られたときにしかバナナが買えないぐらい高価な時代がありました。


バナナは人類の歴史において、最も古くから栽培されていたフルーツという説もありますが、その栄養価の高さから、19世紀末以降、世界各地で栽培され、消費されるようになりました。


戦前から戦中にかけて、日本でバナナは「芭蕉」・「芎蕉」とも表記され、栄養価の高いフルーツとして広く食されていました。


とはいえ、皆さんご存知の通り、沖縄・小笠原・奄美大島などの限られた地域でごく少量栽培されるもの、あるいはハウス栽培など特殊な農法によるものを除き、熱帯のフルーツであるバナナを日本で栽培することはできないため、戦前・戦中も、そして現在も大半は外国からの輸入に依っています。





画像2 台湾における移出バナナ梱包の様子(Ref.A06032560200

現在、日本で消費されるバナナは、多くがフィリピン産で、一部エクアドル産・台湾産などがありますが、戦前から戦後の1970年頃までは台湾産が大半を占めていました。


台湾産のバナナが本格的に日本へ向けて輸出されたのは、日清戦争から8年後の1903年(明治36年)に大阪商船会社基隆支店(基隆は台湾北部の港町)に勤務していた都島金次郎が約400キログラムを基隆港から神戸まで移送したのが最初と言われています。


台湾は日清戦争の後、日本が植民地統治を開始しましたが、台湾におけるバナナの栽培は日本の植民地となる以前からあり、日本統治下で台湾総督府の管理の下、日本輸出向けの品種改良が盛んに行われました。(画像1・2)


台湾産のバナナは、輸出される際、大きな籠に詰められて出荷されることになっており、1籠は時期によっても異なりますが、およそ37~41キログラムでした。





画像3 台湾旅行の広告(『写真週報』第63号、1939年5月、Ref.A06031065800

戦前、日本におけるバナナの消費は1915年(大正4年)頃から増え始め、日本に輸入されるバナナは1915年には約25万籠、1922年(大正11年)には130万籠以上に達していました。


バナナの需要が急増した後の1924年(大正13年)12月には、農商務省と台湾総督府および台湾の青果同業組合が協議したのち、台湾青果株式会社が設立されました。


その翌年の1925年(大正14年)2月には日本国内の主要都市(東京・横浜・阪神・下関・門司)に台湾青果荷受組合が設立されるなど、台湾産バナナを輸入する環境が整えられました。


その結果、台湾からのバナナ輸入は増加の一途をたどり、日本人の中ではバナナといえば台湾というイメージが形成され、台湾旅行の広告中にもバナナが描かれていました(画像3)。




バナナが日本人にとって身近なものとなった背景には、その値段の手頃さもありました。


日本におけるバナナの最盛期は4~6月頃でしたが、例えば1932年(昭和7年)の同じ時期に、東京神田の青果市場では450グラムが6~10銭、江東青果市場では375グラムが4.5~7銭ほどでした。


この値段は、同じ頃のタマゴの値段が375グラム(約10個)で17銭だったことと比較すれば、その買い求めやすさが分かります。


その後、日本の対外関係が緊張し始める時期となっても、日本へのバナナ輸入は増加を続け、1937年(昭和12年)には最多の約313万籠、太平洋戦争勃発直前の1941年(昭和16年)においても約152万籠が輸入されていました。


しかし、1941年12月8日の太平洋戦争勃発後、戦局の悪化に伴い、輸送船舶の軍事徴用や連合国軍の展開による航路の喪失などにより、バナナの輸入は減少の一途をたどりました。


そうした中で、戦時の海運統制に当たっていた海務院(逓信省)や船舶運営会は生鮮食糧品としてのバナナにつき、デッキ積を条件として認めましたが、1942年(昭和17年)には約98万5000籠、1943年(昭和18年)には約52万7000籠、1944年(昭和19年)には約2万籠と減少し、1945年8月の終戦時までにほぼ途絶してしまいました。




 終戦後、再開されたバナナ輸入は、1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)頃、日本に進駐していた米軍へ納入するため、在日華僑により行われたのが最初と言われています。


また、1949年10月頃には、日本政府と台湾の商社との間で米軍納入用のバナナ取引が行われ、米軍が必要とする量を超えるバナナを市場に出すことが許可されました。


その際の卸値は、1籠3万円(東京)から5万円(大阪)であり、これは1キロ当たり1000円以上に相当する金額で、さらに小売価格はその倍近かったと言われています。


当時の平均月収が9867円であったことを考えると、例えば400グラムのバナナ800円は非常に高価な買い物であったと言えるでしょう。


その後、1950年に至り、GHQ(連合国軍総司令部)と中華民国(台湾)との協定の下、日本と台湾の間での貿易が再開され、バナナもその対象となりました。


その当時の輸入形態は輸入割当方式、ないしは外貨割当方式と称され、輸入する物品ごとに輸入量が決められていました。


また、1951年6月5日に通産省より通告された輸入注意事項第33号「非商業目的の為の無為替輸入」に基づいて、在日華僑が行った「外貨自己準備バナナ輸入」も行われました。


これは、在日華僑のための学校を設立する資金獲得を目的にバナナ貿易が利用されたケースと言えます。




以上のように、戦前から日本に輸入されていた台湾産バナナは、戦後になっても日本におけるバナナの中心となっていました。


そして、戦後に至っても台湾産バナナは依然とし主要な地位を占めていましたが、しかし価格は跳ね上がり、高級なフルーツとして市場に出回ることとなりました。


その後、1963年になって(昭和38年)にバナナの輸入が自由化され、1970年代からフィリピン産が大量に日本に出回るようになると、台湾産バナナは次第にその数を減らしていきました。


それに随い、バナナの価格も下がり、現在では安価なフルーツとして皆さんが日常的に食するものとなりました。


バナナという南国のフルーツの背景には、日本と台湾の歴史的な関係、ないしは戦前・戦中・戦後にかけての東アジア国際関係史の一端が垣間見えるのです。

【 参考文献 】

  • 週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』(朝日新聞社、1988年)
  • 許瓊丰「戦後中華民国政府の華僑政策と神戸中華同文学校の再建」(『華僑華人研究』第6号、2009年)
  • 高木和也『バナナ輸入沿革史』日本バナナ輸入組合、1967年
  • ダン・コッペル『バナナの世界史 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年
  • 鶴見良行『バナナと日本人-フィリピン農園と食卓のあいだ-』岩波書店、1982年
  • 東京市役所編『昭和七年度 東京市青果市場年報』(1932年12月)
  • 浜野勇貴「日本統治時代台湾のバナナ産業」(松田吉郎編著『日本統治時代台湾の経済と社会』晃洋書房、2012年)
  • やまだあつし「1950年代日台貿易交渉-1955年第2回交渉を中心に-」(『名古屋市立大学大学院人間文化研究科人間文化研究』第19号、2013年)
  • 若槻泰雄『バナナの経済学』玉川選書、1976年

【 参考資料 】

  • 殖産局出版第一四〇号 台湾に於ける芎蕉(Ref.A06032560200
  • 「写真週報」第63号(Ref.A06031065800