2025年8月15日
終戦から80年が経過しましたが、日本陸海軍の公文書の行方は完全には分かっていません。陸海軍の公文書は先の大戦において、多くが喪失するか行方不明となっています。本ニューズレターでは記録が断片的ながら残されている陸軍を例として、「戦火による公文書の喪失」「終戦時の公文書焼却」「連合国による公文書接収」をとりあげます。以下ではまず陸軍の戦時中の文書行政に触れてから、終戦時の文書焼却を中心に資料を紹介したいと思います。
1 陸軍の文書行政
陸軍の公文書管理法
巨大組織である陸軍では大量の公文書が作成されていましたが、終戦時に多くが破棄されたといわれています。まずは終戦時の文書焼却に入る前に、戦中の陸軍の公文書管理法について紹介します。
陸軍では明治以来、時代の変化や戦争・事変に対応して文書管理制度を整備していました。終戦時に運用されていた陸軍の公文書管理法として「陸軍秘密書類取扱規則」が存在しています。同規則は明治以来運用されていた「陸軍機密書類取扱規則」に代わり、1933年2月18日に制定されたものです。陸軍秘密書類取扱規則の他にも陸軍刑法、軍機保護法、軍隊内務令などで文書管理に関する規定があり、公文書管理制度が体系化されています。
終戦時には大量の「機密文書」が焼却されたといわれていますが、陸軍秘密書類取扱規則ではどのような公文書が機密性の高い書類として規定されていたのでしょうか。
【画像1】件名「昭和8年陸達第2号 陸軍の軍事上の秘密書類に関する件 昭和8年陸普第850号 陸軍秘密書類取扱規則(1)」(Ref: C14060233400、10~11画像目)
【画像1】にみられる第2~4条では、作戦、用兵、動員、暗号、地図などの機密保持上重要な文書、諸勤務令や陣中日誌などの軍の内外を問わず公表を禁じる文書が陸軍秘密書類とされています。こうした公文書が終戦時に焼却対象にされたと考えられます。
また、陸軍秘密書類取扱規則では「軍事機密」「軍事極秘」「軍事秘密」に区分される軍部の内外に公表しない機密性の高い文書の総称として「陸軍秘密書類」という用語を使うように定められています。この他、「部外秘」「特」「将校の外閲覧を禁ず」に区分される文書は一般文書扱いであり、陸軍秘密書類に準じた扱いを指定されていない限り原則として含まれていませんでした。ここでは陸軍の公文書の中でも機密性が高い「陸軍秘密書類」に注目して、それらの戦中から終戦前後の破棄と保存に関する資料を紹介していきます。
記録に残された公文書事故例
陸軍の公文書管理の最高責任者は陸軍大臣で、陸軍大臣官房が公文書管理に関して通達を出したり、公文書事故の報告を受けたりしています。このため、陸軍省の発翰文書を編冊した「陸軍省大日記」には、陸軍大臣に送られた陸軍秘密書類の事故報告が収録されています。
「陸軍秘密書類取扱規則」第68條では、陸軍秘密書類の事故が発生した際には、文書管理者は直ちに所属機関の上長に報告、事故発生部署の所管長官から事故発生の概報を陸軍大臣に送付、その後に調査の上で「詳報」を大臣に提出することが定められています。詳報には、事故書類名・事故発生日時及場所・事故発生の部隊名、関係者職氏名・事故の顛末及処置・責任者の処分などが記されており、これをもとに陸軍大臣官房が事例集を作成し、全陸軍に対して文書管理の徹底を通達することもありました。
【画像2】件名「陸軍秘密書類事故に関する原因調送付の件陸軍一般へ通牒」(Ref.C01007817900、4~5画像目)
陸軍大臣官房作成の「自昭和十七年一月至昭和十七年十二月陸軍秘密書類ノ事故ニ関スル原因調」【画像2】では文書の紛失、誤破棄など、不適切な取扱による過失事故が確認できます。また、陸軍秘密書類の適切な管理の問題に加えて、陸軍省防衛課が陸軍秘密書類の情報保全についてとりまとめた「秘密書類ニ関スル防諜実施ノ参考」(Ref.C01004911100)を作成しており、軍の公文書管理や戦時の公文書管理の特徴が伺えます。
戦時の非常処置規定と文書焼却マニュアル
一方、軍の公文書管理は、不適切な取扱による事故とは性質の異なる問題を抱えています。特に戦時には敵に文書が鹵獲(ろかく)される危険があるため、「敵国から如何にして公文書を守るか」が重視されていました。陸軍刑法第52条では「軍事機密書類、物件を保管する者危急の時に当り之を敵に委せさる方法を画ささるときは5年以下の禁錮に処す」とあり、「敵に公文書を渡さない」ことが基本となっていました。
また、日中戦争勃発後は、陸軍秘密書類取扱規則に新たに下記の「第46条の2」「50条の2」が追加されています(Ref: C14060233400、35~36、39画像目)。
陸軍秘密書類取扱規則第46条の2
「動員部隊等ニ於テ使用スベキ戦地又ハ事変地携行用ノ容器ハ公用行李ヲ用ヒ其ノ重要ナルモノニハ所要ニ応ジ危急ノ際之ヲ湮滅スルノ処置ヲ講ジ置クモノトス」
陸軍秘密書類取扱規則第50条の2
「戦地又ハ事変地ニ於テ危険ノ顧慮アル地ヲ通過スル際ニ於テハ重要書類ハ努メテ保管者(保管者ノ指定スル将校ヲ含ム)ノ監視ノ下ニ之ヲ携行シ要スレバ特ニ護衛兵ヲ附シ予メ危急ノ際ノ処置法ヲ講ジ置ク等保管ニ関スル万般ノ準備ニ遺漏ナキヲ要ス」
いずれも危急の際の陸軍秘密書類の非常処置を明文化したもので、この規則を基に具体的な処置方法も研究され、1938年2月23日には「秘密書類ノ迅速湮滅法研究結果概要」(Ref.C01004504100)が全陸軍に配布されています。この研究では、単に書類や簿冊に火をつけただけでは燃え難いことと、石油などを用いた場合でも焼却対象の間に酸素の通り道になる空間をつくらないと完全に燃焼しないとされています。そこで市販のセルロイドを焼却対象の書類に挟むことが示されており、この研究の後には文書焼却用のガソリンやセルロイドの携行基準が定められていきます(「3.非常焼却に要する資材の整備並に携行基準表」(Ref.C14010733100))。
【画像3】件名「5.秘密重要物件焼却具海没(防止)具携行基準表」(Ref.C14010733300)
太平洋戦争中に参謀本部で資材整備の参考にされた第5師団・第6師団の非常焼却具の携行基準【画像3】では、「規定成型厚サ二糎ノモノ百冊ニ付石油又ハ『ガソリン』一八立、手榴弾五個、携帯地雷一個ノ割合」とされています。また、海上輸送・機動中の陸軍秘密書類の海没防止策として、浮袋(軍旗はゴム引衣に入れる)、ドラム缶、亜鉛鈑製缶、木材及丸竹に依る筏、投網類、救命胴衣などの準備が規定され、同時に非常時の海没処置用具として「海没スベキ物件ノ重量ノ約三倍ノ重量ヲ基準」として「鉄・鉛・石之ニ要スル綱」の携行が規定されています。
非常焼却具の携行基準の他、実際の非常時における対応についても研究され、各部隊で対応の研究と教育が実施されて行きました。残存する支那派遣軍総司令部の「暗号保安提要」からは体系化された処置がわかります。
【画像4】件名「第3 非常時対策」(Ref.C11110779000、4~5画像目)
「暗号保安提要」の非常時対策では、処置方法として焼却・爆破・裁断が定められています。一方で陸軍秘密書類の非常処置を行うような状況では司令部要員も最後の戦闘に参加しているため、人手による裁断処置は難しいことが示されており、非常処置の適切な時期と人員の確保が難しい様子が見て取れます。第5師団歩兵第11連隊では「歩兵第11連隊暗号書及書類の非常処置順序」(Ref.C11110780900)を定め、状況に応じて第1次~第5次焼却を行うとしていました。
このように陸軍では非常処置がマニュアル化されており、軍では公文書を「敵手に委ねない」というのが絶対だったことがわかります。実際に非常事態に陥った際には規則と要領に沿って公文書の焼却・爆破・裁断・埋没・海没といった措置が講じられていました。実際の戦地での文書携行について「関東軍陸軍秘密書類取扱細則」(Ref.C12120762000)の運用説明では、「自分ノ生命ノ危険ニ曝サレル迄持ツテ居ルト言フコトハ考ヘ様デアリマシテ真ニ危険ヲ感ジタ場合ニハ必要ノ最小限ダケヲ残シテ処置シ其ノ最小限ノ書類モ最後ニ到達スル以前ニ必ズ処置スルコトガ必要」とされています。非常処置を実施する状況とは、敗北により軍事組織、あるいは文書保管者・取扱者が文書管理能力を喪失する時であったことがわかります。敵国に公文書が鹵獲され、自国の管理下を離れてしまうという事態にどのように対処するのかが戦時下の公文書管理の大きな問題点でした。
2 戦火による公文書の喪失:太平洋戦争中の非常処置と文書破棄の臨時規定
陸軍秘密書類の戦時の非常処置が定められていましたが、太平洋戦争開戦後はこうした規則を実際に適用する事態が頻発していきます。戦局が悪化していくと公文書の送達も輸送船の撃沈や輸送機の撃墜により不達状態になったり、通信機関は内地・外地ともに電話・電報の増大により飽和状態になったりしたため、公文書行政に支障をきたしていきます。
陸軍大臣官房がとりまとめた1942年度の公文書事故原因調査からは、陸軍秘密書類の戦火による喪失の事例が確認できます。
【画像5】件名「陸軍秘密書類事故に関する原因調送付の件陸軍一般へ通牒」(Ref.C01007817900、8、13画像目)
【画像5】では戦闘中の焼失・海没、非常焼却が発生していたことがわかります。陸軍では戦局の悪化に対応するために、事務簡捷による文書作成・送達の効率化と紙資源保護、そして、陸軍秘密書類に関する臨時規定を設けて、文書破棄手続きの簡略化と鹵獲対策の徹底が図られていきます。
【画像6】件名「不用陸軍機密書類の返納に関する件陸軍一般へ通牒」(Ref.C01007848100)
1944年6月30日、「不用陸軍機密書類ノ返納ニ関スル件(昭和19年陸密第2706号)」では、戦局の悪化により文書鹵獲対策として陸軍秘密書類の非常処置を実施しなければならない状況が頻発したために、現場の状況に即した臨時規定を通達しています。陸軍秘密書類の管理に関して、戦況に即すよう各級責任者の権限を拡大し、陸軍秘密書類の破棄手続きの簡素化が図られました。また、紙資源保護のために改正により不用となった規則や教範などを回収してリサイクルすることも通達されています。
【画像7】件名「陸軍秘密書類の返納焼却に関する件陸軍一般へ通牒 陸軍秘密書類の処理に関する件」(Ref.C01007862500)
1944年11月4日、「陸軍秘密書類ノ処理ニ関スル件(昭和19年陸密第4721号)」では、陸軍秘密書類について「真ニ已ムヲ得サル場合ニ於テハ」「陸軍大臣(参謀総長)ノ許可ハ之ヲ俟タス処理スルコトヲ得」とされ、現場指揮官の判断による陸軍秘密書類の処置は電報での顛末報告で認められるようになります。
1945年3月23日に通達された「陸軍秘密書類ノ返納焼却等ニ関スル件(昭和20年陸密第1038号)」では、従来は作戦地域に限定されていた臨時規定が「適用地域制限ニ関スル件ハ自今撤廃シ内外ヲ問ハス適用」されています。この通達が出された当時は、硫黄島から最後の電報が届き、米軍の沖縄上陸が迫っている状況でした。内地・外地を問わず作戦地域化し、陸軍では「危急の際」には各級文書保管者の判断で陸軍秘密書類の非常処置を実施できる体制が整えられていきました。
以下にみるように、こうした戦中の陸軍秘密書類に関する臨時規定の運用と非常処置実施は、終戦時の文書焼却につながります。
3 終戦時の公文書焼却:文書破棄と保存
終戦時に公文書の焼却命令が出されたとされていますが、命令の原本はいずれも残されていません。しかしながら、命令の写しや証言などから断片的に焼却命令をたどることができます。
まず、8月14日に陸軍大臣の命令に基づき陸軍省で公文書の焼却命令が出されていたとされます。陸軍省の機密電報番号簿には8月15日に「帝国ノ戦争終結ニ関スル件」と同時に陸軍秘密書類の焼却に関する命令が発信されたことが記されています。
【画像8】件名「陸機密電番号簿 1/4 昭和20年8月15日~昭和20年8月30日 (第67号~第91号)」(Ref.C15010958100、2、4画像目)
【画像8】に記された「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件(陸機密電第67号)」が、いわゆる陸軍における終戦時の公文書の焼却命令ですが、原本は現存していません。しかし、この命令の依命通牒者であった陸軍省高級副官(大臣官房長に相当)の美山要蔵大佐の詳細な証言資料が残されています。
【画像9】件名「美山要蔵(第一復員局文書課長)証言」(国立公文書館請求番号:平11法務02807100)
焼却命令の内容は、「陸軍秘密書類取扱規則ニ依ル機秘密書類及之ニ類スル書類ハ直ニ焼却ノコト本電ハ受領セバ焼却スベシ依命」(陸機密電第69号「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件」の要旨) 【画像9】というものだったことが伺えます。美山の証言資料によると終戦時の文書焼却の法的根拠は、陸軍刑法と陸軍秘密書類取扱規則に基づいているとされ、敵国による公文書鹵獲を防ぐ戦時の非常措置として行われていました。美山要蔵の証言を裏付ける資料も残されています。
【画像10】「第16方面軍.西部軍管区 復員関係資料」(防衛研究所戦史研究センター史料室 登録番号:文庫-柚-126)
【画像11】「独立混成第125旅団戦史資料 昭25.12.1」(防衛研究所戦史研究センター史料室 登録番号:本土-西部-94)
【画像10】は第16方面軍(西部軍管区)司令部発電の焼却命令の写しで、【画像11】は独立混成第125旅団に下達された焼却命令の写しです。同命令は、陸軍省→第2総軍→第16方面軍→第40軍→第146師団→独立混成第125旅団という過程で下達された命令といわれており、美山証言にある陸軍省発電の「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件(陸機密電第69号)」の要旨と内容が一致しています。また、第16方面軍が第2総軍から受電した別電では捕虜関係の文書焼却を示唆する資料もあります。
一方、陸軍中央から具体的な焼却対象についての指示が出ていたかわかる資料はありません。「陸軍秘密書類取扱規則ニ依ル機秘密書類及之ニ類スル書類ハ直ニ焼却ノコト」という概括的な命令だけでも、戦中からの文書鹵獲対策や戦時規定により各文書保管者の判断で適宜処置することが可能でした。終戦時に陸軍の軍隊・官衙・学校・特務機関は様々な地域で異なる状況におかれていたため、部署によって処置すべき公文書の判断が異なっていたと考えられます。
例外的に憲兵隊の文書焼却命令の写しからは、命令の下達過程、焼却対象、そして保存すべき公文書の一端がわかります。
【画像12】件名「通牒(20-8-14)憲兵司令部本部長→各地区憲兵隊司令部機秘密書類焼却」(Ref.A08071285300、346画像目)
【画像12】は、1945年8月14日に憲兵司令部本部長より通牒された「書類処理ニ関スル件通牒(憲秘総第261号)」で、「外事防諜思想治安等」の関係文書と「国力判断可能な諸資料」「秘密歴史」は速やかに焼却とされています。一方で、暗号書や憲兵隊職員の兵籍簿、未処理の経理文書などは用済みまで残置することが命じられています。また、「左翼要注意者連名簿」などの将来に亘り必要となる、治安・思想関係文書を巧妙に保管することが考慮されていました。治安維持の一翼を担った憲兵隊では、国内の治安情報や日本の国力判断可能な資料を占領軍に渡さないようにしていたことがわかります。
【画像13】件名「通牒(20-8-14)憲兵司令部本部長→各地区憲兵隊司令部機秘密書類焼却」(Ref.A08071285300、347~348画像目)
また、1945年8月14日に憲兵司令部本部長より依命通牒された「電報(憲電第1205号)」【画像13】では、先に紹介した【画像6~7】の戦時の臨時規定に沿って、文書焼却の判断が各級指揮官(文書保管者)に委任されていたことと、陸軍秘密書類(機密書類、暗号)は陸軍秘密書類取扱規則と「焼却教育」に従って確実に処置することが命じられています。また、8月20日付「秘密書類焼却ニ関スル件通牒(憲秘庶第377号)」では、陸軍秘密書類について焼却が不十分で焼け残っていたり、私物参考書に綴込んで整理漏れとなっていたりすることに注意して「末梢迄徹底ノ処置ニ遺憾ナカラシメ度」と通牒されています。
【画像14】件名「通牒(20-8-14)憲兵司令部本部長→各地区憲兵隊司令部機秘密書類焼却」(Ref.A08071285300、349~351画像目)
1945年8月27日付「書類整理ニ関スル件通牒(西部憲秘庶第232号)」【画像14】は、鹿児島地区憲兵隊が西部憲兵隊司令部から受令したもので、ここからは鹿児島地区憲兵隊で実際に焼却された公文書が警務書類などの「治安関係」であったことがわかります。また、「今後の憲兵隊書類ハ各書類ノ内容ヲ慎重ニ勘案シ」焼却・焼却準備・保存に選別して処置されていたことがわかります。終戦時の混乱と緊張状態から約2週間が経過して「慎重に勘案する」時間的、精神的余裕が出来ていたことが伺えます。
【画像12~14】はいずれも、鹿児島地区憲兵隊「発来翰綴」より抜粋された命令の写しで、東京裁判の検察側資料として使われたものです。「発来翰綴」は【画像14】にみてとれるように「焼却準備」とされていましたが、焼却されずに保管されていました。しかし、原本は戦後に米国に接収され、その後の所在は分かりません。
焼却と保存というように文書の選別がされていたことからもわかるように、終戦時に全ての公文書が焼却されたのではありませんでした。例えば陸軍省・参謀本部では「大陸命」「御前会議議事録」などの重要文書は、文書管理者・取扱者の判断により焼却されずに保存されました。他にも「連名簿」「兵籍簿」などの人事文書や経理文書は、各文書保管者の判断により焼却された一部を除いて保存されています。その後、1945年8月18日「帝国陸軍復員要領」が制定され、陸軍として公式に保管すべき公文書が明示されています。
【画像15】件名「帝国陸軍復員要領.細則綴(1)」(Ref.C13070718500、45~46画像目)
帝国陸軍復員要領細則第19条【画像15】では、兵籍簿・文官名簿は各都道府県庁に移管、未処理の人事・経理文書の保管などが定められています。8月15日の終戦から9月2日の降伏文書調印までは約2週間の時間があり、陸軍ではその間に文書の選別が行われ、焼却と保存が同時進行します。
それでは、文書焼却はいつ誰が停止を命令したのでしょうか。
【画像16】件名「17.昭和20年9月3日 外務省訳 陸軍修正 連合国最高司令官司令部(1)」(Ref.C15010735900、9画像目)
1945年9月3日、「連合国最高司令官司令部指令第2号 第2章 日本国軍隊 7項」【画像16】において、「日本帝国大本営ハ動員解除ノ終了迄日本国軍隊ノ維持及ビ管理ヲ継続スル責任ヲ有シ且ツ連合国代表ニ依リ責任ヲ解除セラルル迄一切ノ記録及公文書ノ維持管理ノ責任ヲ有スル」とされ、これが事実上の焼却停止命令となっています。また、各戦域では連合軍との間で降伏に備えて会談が行われ、現地協定が結ばれており、その協定内で公文書の提出や資料作成が命じられ、文書焼却の停止と引継ぎが行われました。
日本軍公文書は終戦以降も焼却されたり保存されたり、戦地では米英豪軍やソ連軍、中国軍に鹵獲・接収されたりしました。
4 連合国による公文書接収:日本国外の残存公文書
終戦時に大量に公文書などが焼却されましたが、それでもなお多くの公文書が残されていました。しかし、残された公文書も次々に日本の管理下を離れていきます。
1945年11月~1946年3月にかけて、米陸海軍省共管の WDC(Washington Document Center)が日本国内の旧陸海軍組織と関連機関から約45万点の公文書などを接収しました。その内、日本に返還されたものは約2万数千点で、現在も90%以上が未返還です。未返還の日本陸海軍公文書40万点以上が米国内に残存する可能性が高いとされています。また、WDCとは別にGHQ-G2が1946年末に旧陸海軍機関から約7万5千~8万点の公文書を接収していますが、こちらは現在全くの行方不明です。
日本軍の公文書は「戦火による喪失」「終戦時の焼却」「連合国による接収」を経ており、現存が確認できない理由は様々です。特に終戦時に全ての公文書が焼却されたわけではなく、戦後に連合国によって多数の公文書が接収されている事実がしばしば忘れられています。1940年代末~70年代には旧厚生省・旧防衛庁が接収公文書の行方調査や返還交渉を所掌していましたが、現在はこうした活動を公的事業として継続している機関はない状況です。国外に残存するはずの陸海軍公文書40万点以上が未返還・行方不明であり、未だにアーカイブズの基盤整備は終わっているわけではありません。
【参考文献】
〈アジア歴史資料センター調査員 長谷川優也〉