アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第48号

2025年8月15日

特集(1)

国立公文書館 令和7年度「国際アーカイブズ週間」記念講演会《講演概要》

「終戦」を記録する

※本稿は、2025年6月12日に国立公文書館が開催した「国際アーカイブズ週間」記念講演会における波多野澄雄アジア歴史センター長講演の概要です。

                  アジア歴史資料センター長 波多野澄雄

はじめに

終戦80周年を迎え、様々なイベントが企画されていますが、この講演では、80年のみならず、さらに100年のスパンで、「「終戦」を記録する」意味を考えてみたいと思います。その際、ドイツと異なり、政府の解体や断絶が避けられた日本は、後世のため、国(政府)として記録して、将来に継承すべき出来事は何か、という観点から3つに絞って、個人的な考えを述べてみます。

その1つは、日本の政軍の最高指導者たちが、1945年8月14日に、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定したプロセスを記録しておくことです。

2つ目は、日本の終戦は連合国に対する敗北であると同時に、植民地帝国の解体を意味したことです。

3つ目は、敗戦前後、「公文書の受難」という開国以来の出来事に直面したことです。国や地方を問わず、軍や行政機関が保有する公文書の疎開、焼却、連合国による接収、そして返還という経験、その実態はやはり記録に値する出来事だったと言えるでしょう。

以上の3点をはなはだ不十分ながら考えてみたいと思います。

1.政軍指導者の沈黙と激論―「国体護持」をめぐる葛藤

作家の志賀直哉は、終戦からまもなく、「鈴木貫太郎」というエッセイのなかで、次のように書いています。

「吾々は今にも沈みさうなボロボロ船に乗ってゐたのだ。軍はそれで沖へ乗出せという。鈴木さんは舳(へさき)だけを沖へ向けて置き、不意に終戦といふ港に船を入れて了った・・。」

この一文は、恐らく、当時の一般国民の「終戦」という出来事に対するとらえ方を最も端的に表現しているか思いますが、とくに重要なのは「不意に」という言葉です。つまり、7月26日の米英中の対日降伏勧告としてのポツダム宣言の発表から、8月15日の玉音放送まで、一体、政軍の最高指導者の間で何が話し合われ、何が問題となっているのか、国民にはほとんど伝えられませんでした。まさに終戦は「不意に」やってきたのです。

「沈黙」の二週間

小磯國昭内閣時の1944年に最高戦争指導会議が設置されます。1945年4月に発足の鈴木貫太郎内閣のときには、最高戦争指導会議構成員会議という会議体が設けられ、終戦・和平といった重大事項については構成員会議のメンバー6人のみに限定した会合が適宜、開催されることになっていました。6人とは、政府側の鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、統帥部の梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長のことです。

それまでの最高戦争指導会議には、幹事(次官、次長など)も加わっていたため、議事内容が外部に洩れることが度々ありました。それを防ぐため、幹事など補佐役を排除した6名のみに限定したのです。これを「六巨頭会談」と呼ぶ場合があります。

六巨頭会談は、ポツダム宣言受諾をめぐって7月26日以降、頻繁に開催されるのですが、黙殺談話、原爆投下、ソ連参戦、第一回聖断(国体護持の1条件で受諾)、バーンズ回答、第二回聖断、クーデター計画、終戦の詔書の作成、玉音放送と続く、日本の運命を左右するような重大な出来事について、そこで何がどのように具体的に議論されたのか、はっきりせず、むろん議事録のようなものは存在しません。しかし、戦後になって会談を振り返った会談参列者の回想や手記の類は少なくありません。六巨頭のみの会談以外でも、たとえば正式の国策決定のための閣議、さらに閣僚懇談会も並行して頻繁に開催され、そして天皇のもとでの御前会議には20名を越える参列者がいました。

これらの参列者の手記や回想録を重ね合わせてみると、六巨頭会談のおおまかな流れは解ります。その流れを大きく分けてみると、7月27日から8月8日までは、いわば「沈黙」です。

当時、日本は中立国であったソ連の仲介による対米英和平に期待をかけ、外交ルートでソ連に呼びかけていました。ソ連の仲介で、いくらかでも有利な条件で和平ができるのではないか、少なくとも無条件降伏は避けられるのではないか、と淡い期待をかけていました。米英中のポツダム宣言にソ連が加わっていなかった(ソ連は交戦国ではありませんでしたから、当然といえば当然だったのですが)ことから、ソ連の回答をじっと待っていました。したがって、六巨頭会談の議論も全く深まりませんでした。

「激論」の一週間

ところが、8月9日の未明から、ソ連軍の満洲進攻が開始され、ソ連の仲介という可能性が消滅すると、今度は「国体護持」のためにどのような降伏条件を連合国側に求めるのか、国体護持という1条件だけでよいのか、自主的な武装解除や保障占領の回避といった条件を併せて求めなければ国体自体が危うくなるのではないか、といった問題をめぐって、六巨頭会談以外の協議の場でも激しい議論となります。つまり、8月9日から14日までは、それまでとは対照的に、国体護持をめぐって「激論」が生じたのです。

しかし、その「激論」の中身について、もっぱら東郷外相と阿南陸相の激しい論争が強調されるのですが、それは東郷外相が詳しい手記を残しており、多分にそれに引きずられている面があります。その一方、その他の指導者が何を発言したのか、はなはだ曖昧で、相互に矛盾する証言も少なくなく、研究者の間でも評価が異なっているのです。

たとえば、8月14日の最後の御前会議で、天皇が、「自分の身はいかようになろうとも、国民の命を守りたいと思う。この際、自分のできることは何でもする。マイクの前にも立つ」との趣旨の発言を行った、という話は巷では良く知られていますが、終戦に関する著作の多くはこうした発言はありえない、無かったものと否定しています。

しかし、老川祥一氏の『終戦詔書と日本政治』は、内閣書記官長であった迫水久常氏の著書や、保科善四郎(当時、海軍省軍務局長)のインタビュー記事などから、これに反論し、「自分はいかになろうとも」という言葉は、そのあとの「マイクの前に立つ」との発言をあわせて読めば、「天皇自身の固い決意を列席者にわからせようとした発言」として肯定しています。

ついでに、戦争終結を導いた要因について触れておけば、これまで原爆か、ソ連参戦か、あるいは双方の要因か、いずれにしろ「外圧」が強調されてきましたが、最近では本土防備体制の不備が天皇や宮中、重臣たちに伝わっており、少なくとも天皇の決断についていえば、それを促した主たる要因ではなかったか、という見方が示されています。原爆やソ連参戦という「突発的な外圧」は、いわば終戦の「口実」として利用されたのです。

ちなみに、鈴木首相は国民に訴えかけるためにラジオ放送を多用したのですが、8月15日午後7時からの「大詔を拝して」と題する最後の放送は、サイパン島の陥落以来の太平洋戦線における日米両軍の死闘を振り返り、敗戦原因として「革命的な原子爆弾の発明」を強調しています。

 

2.「外地」の喪失―占領地・植民地の解体

「我が大日本帝国はアジア洲の東部にあって、日本列島と朝鮮半島から成り立っている。・・・国民の総数は約一億で、その大部分は大和民族であるが、朝鮮には約二千三百万の朝鮮人、台湾には約五百万の支那民族と、十余万の土人(原文ママ)とがいる。又北海道には少数のアイヌ人、樺太には少数のアイヌ人とその他の土人(原文ママ)がいる。諸外国に移住している大和民族は約百万である。」

これは、戦前の1938年、当時の小学校の地理教科書(『尋常小学地理書』)に描かれた「帝国領土」の記述の一部です。

日本の連合国に対する敗北は、同時に植民地帝国の解体を意味しました。当時、「外地」と呼ばれた植民地や占領地―朝鮮、台湾、満洲、樺太(戦争中に「内地」編入)、南洋群島等―が敗戦によって一挙に失われました。

「外地」の住民は「日本臣民」としての位置づけを与えられ、日本の総力戦体制を労働力や兵站の面で大きく支える役割を果たしていました。その数は当時の日本人(帝国臣民)の総数約1億人の約3割にものぼります。また直接、「日本軍兵士」として戦場に赴いた朝鮮人や台湾人も、それぞれ20万人を越えています。戦争末期の本土決戦計画でも、朝鮮、台湾、樺太は敵の来襲時には本土と同様に徹底抗戦を行うことが想定されていました。

日本の植民地・占領地統治は、ヨーロッパのそれと異なり、近隣のアジア地域を1つの権力(日本)のもとに政治・経済・社会の一体化を推し進める「併呑型」でした。とくに朝鮮、台湾、満州は相互に「人の移動」も頻繁で、それぞれの経済が深く融合し、1つの疑似的な「国民経済圏」を形成していました。

それだけに、終戦と同時に起こった植民地帝国の解体は、「外地」の「日本臣民」に大きな衝撃を与えました。朝鮮人や台湾人は日本国籍を離れ、日本人とは異なる苦難の戦後を歩むことになります。

敗戦とともに、3割もの異民族を擁した「多民族国家」の記憶も遠ざかっていきますが、これは忘れてはならない国民の歴史のように思えます。

 

3.「公文書の受難」―疎開と焼却、接収と返還

中央官庁や地方行政府において、終戦前後に大量の公文書類が廃棄・焼却されたことは良く知られていますが、その実態は未だ十分につかめていません。ここでは、文書の疎開や占領軍による接収、さらに返還を含めて、これまでの調査・研究状況(【参考文献】参照)を踏まえ、主に外交文書と軍事文書を中心に簡単に紹介してみます。

文書疎開

陸海軍の文書疎開は、空襲が激しくなった1944年12月から始まります。陸軍は「大日記類」(陸軍省発簡文書)など永存書類を東京都南多摩郡の陸軍省地下倉庫に疎開し、海軍も「公文備考」(海軍省発簡文書)、「戦闘詳報」など永存書類を山梨県北巨摩郡の海軍省韮崎分室などに疎開したことが知られています。

一方、外務省は陸海軍より早く、1944年2月には条約原本を「現戦争中之を安全に保存すること極めて緊要」として、日銀本店の地下倉庫に搬送します。同年4月になると、重要文書3万冊を埼玉県の埼玉銀行幸手支店の倉庫、埼玉郡の個人所有倉庫に搬送します。また1945年5月25日の空襲で外務省庁舎が全焼し、文書2万冊、図書3万冊が焼失しました。

焼却・廃棄

1945年8月14日の閣議で機密文書の廃棄が決定され、各官庁では組織的な文書焼却が実施されますが、陸軍の場合は同日の陸軍大臣命令によって、全陸軍部隊に対し、機密文書の速やかな焼却が指示されます。海軍の場合も同様でした。

焼却対象は、国力判断が可能な資料や外事防諜関係などが優先され、兵籍簿、文官名簿など人事関係は残されました。その一方、陸軍は西南戦争以来、徹底した文書管理を行っており、その一環として「秘密書類取扱規則」を定め、作戦、用兵、動員、暗号などの秘密書類の漏洩防止のため「危急の際には非常措置」をとることも定めていました。終戦時の秘密書類の焼却命令の多くはこの非常措置規定の延長で行われたことも重要です。

「外地」部隊では、自力輸送が不可能な公文書・私文書は敵の鹵獲(ろかく)を防ぐため破棄や焼却が指示されており、さらに捕虜関係、国力関係、治安関係の文書も敵手に渡ると害があるものとして、焼却が命じられました。

その一方、陸軍省軍務局では、庶務将校が「機密戦争日誌」「大本営政府連絡会議議事録」「重要国策決定綴」「御前会議議事録」など、戦後の歴史研究にあたって極めて重要な貴重書類を焼却することなく、密かに保管した特筆すべき事例も知られています。

他方、外務省は1945年8月7日に「外務省文書処理方針」を定め、「記録文書中、内容より見て絶対に第三者に委することを防止すべきもの」という特有の理由によって重要文書の「非常焼却」がなされました。

1948年2月時点での外務省記録の残存数(簿冊)は4万8000冊で、終戦時の総数7万6000冊のうち2万8000冊が戦災や非常焼却によって失われたことになります。

接収・返還-なおも残る未返還文書

1945年から46年にかけてWDC(Washington Document Center)の出先機関を中心に、日本側文書の大規模な接収作業が行われ、総数で45万点の軍事関係の記録や印刷物が接収され、米国内に搬送されたといわれます。簿冊単位では、陸海軍文書の接収総数は4万1000冊でした。

接収された陸海軍文書や外務省文書などは、外交交渉によって1958年と74年に一括返還されましたが、外務省文書のうち46%、「陸軍省大日記」類の場合は41%が未返還のままとされています。また、防衛庁戦史室(1974年当時)によれば、「大東亜戦争」関連の接収史料は全体の5~6%が未返還とされています。

なお、この問題に詳しい田中宏巳氏の調査によれば、米国内には今なお40万点を越える未返還資料が存在しているといいます。

地方の状況

地方の行政機関(県庁や役場)では廃棄対象となったのは主に軍事・警察関係のものであり、疎開によって戦災を免れた地方文書も少なくありません。たとえば広島県庁では、原爆によって庁舎は破壊されましたが、その前に多数の文書を疎開していたため、重要文書の多くは残されたと言います。

海外(「外地」)の状況

ソ連占領地域(満洲、樺太、関東州)では焼却や略奪によって公文書の大半は喪失しましたが、朝鮮、台湾では旧総督府文書が各保存機関に大量に保存されていることが解っています。また南京や北京では国民党政府が日本公館の文書類を大量に接収していますが、その多くは未だ行方が不明です。

本講演では、ほんの一部の事例を取り上げたにすぎませんが、それでも終戦前後に公文書の廃棄や焼却が徹底して行われたという見方には修正の必要があることが解ります。

何が廃棄対象となったか、何が残されたか、という観点からすると、優先的に残されたのは、日本の行政運営の中核ともいえる人事関係の書類であること、さらに戦後の歴史編纂を見すえて文書が残された場合もあることが指摘でき、この2つは日本の「国のかたち」を語る上で、多くのことを示唆しているように思われます。

 

おわりに

以上、紹介しました3つの出来事は、近代日本の歩みの中で、未曽有の「特異な体験」とみなすのではなく、やがて直面するであろう危機に際しての政治や行政の運営に生かすべき教訓として、将来世代に語り継ぐべき貴重な体験のように思われます。日本の行政機関に欠けているとされる、未来に対する「説明責任」とは、危機においてこそ試されるのです。

※資料の引用に際して、読みやすさを考慮して片仮名を平仮名にするなど表記を改めた部分があります。

 

【参考文献】

    • 石本理彩「外務省文書及び図書の疎開・焼却・接収・返還」(『レコード・マネジメント』81号、2021年)
    • 石本理彩「旧陸軍接収文書の返還状況について-陸軍省大日記類を中心に」(『レコード・マネジメント』83号、2022年)
    • 井村哲郎「GHQによる日本の接収資料とその後」(『図書館雑誌』74-75号、1980~81年)
    • 井村哲郎「『満洲国』関係資料解題」(山本有造編『「満洲国」の研究』緑蔭書房、1995年)
    • 井村哲郎編『1940年代の東アジア:文献解題』アジア経済研究所、1997年
    • 海野福寿「朝鮮総督府関係資料を発掘する」(『図書館雑誌』90巻8号、1996年)
    • 梅原康嗣「公文書の疎開と復帰」(『北の丸』39号、2006年)
    • 老川祥一『終戦詔書と日本政治-義命と時運の相克』中央公論新社、2015年
    • 数野文明「原爆とアーカイブズ」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』第1号、2005年)
    • 加藤聖文「敗戦時における公文書焼却の再検討-機密文書と兵事関係文書-」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』15号、2019年)
    • 加藤聖文「敗戦と公文書廃棄-植民地・占領地における実態」(『史料館研究紀要』33号、2002年)
    • 加藤聖文「喪われた記録-戦時下の公文書廃棄」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』第1号、2005年)
    • 川島真「時間軸から見る公文書とアカウンタビリティ―公文書作成現場、外交文書の意義、移行期正義」(『アーカイブズ学研究』29号、2018年)
    • 斎藤達志「日本軍における公文書管理の研究」(『平成25年度アーカイブズ研修Ⅲ 終了研究論文集』2014年)
    • 住谷雄幸「占領軍による押収公文書・接収資料のゆくえ」(『図書館雑誌』83巻8号,1989年)
    • 関輿吉「初期終戦処理回顧録」(『軍事史学』56巻1号、2020年)
    • 高橋実「ある兵士の文書焼却日記を読んで」(『全史協会報』57号、2001年)
    • 田中宏巳「〔解説〕米議会図書館(LC)所蔵の旧陸海軍資料について」(田中編『米議会図書館所蔵占領接収旧陸海軍資料総目録』原書房、1995年)
    • 田中宏巳「米国にある膨大な資料を忘れた軍事史の将来を憂える」(『軍事史学』60巻3号、2024年)
    • 戸部良一ほか編『決定版 大東亜戦争(上・下)』新潮新書、2021年
    • 長谷川優也「旧陸軍の秘密書類管理精度と終戦前後の文書焼却」(『軍事史学』56巻1号、2020年)
    • 服部龍二『外交を記録し、公開する―なぜ公文書管理が重要なのか』東京大学出版会、2020年
    • 檜山幸夫「台湾総督府文書の保存状況と将来的課題」(『地方史研究』245号、1993年)
    • 檜山幸夫「台湾植民地統治関係史料-台湾総統府を中心に-」(前掲、井村編『1940年代の東アジア』)
    • 福島鋳郎「接収公文書返還の周辺」(『出版文化』6号、1975年)
    • 防衛研修所戦史室『陸海軍記録文書目録―米軍撮影マイクロフィルム篇 附録 返還の経緯と状況』1974年
    • 村上勝彦「韓国所在の朝鮮総督府文書」(前掲、井村編『1940年代の東アジア』)