アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第47号

2025年5月27日

特集(3)

「松山水曜会記事」から見たロシア兵捕虜の実態

1904年に開戦した日露戦争は、ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)の締約国同士の最初の戦争でした。同条約は、捕虜の取り扱い等を定めています。日露戦争においては、7万人を超える捕虜が日本に収容されました。多数の捕虜に対して、どのように条約を運用していくのかという点は、大きな問題として浮上しました。

本稿では、日露戦争期における捕虜に関するアジ歴史料を紹介する中で、当時の実態を見ていくことにします。(当時の史料では「俘虜」と「捕虜」が両方使用されていますが、引用中の表記はそのままとし、本文中は「捕虜」に統一します。)

 

1 ハーグ陸戦条約の締結

1899年にロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけにより、第1回万国平和会議が開催されます。ニコライ二世は、各国の軍備拡張を制限する狙いから会議を開催しました。ところが、各国は軍備拡張の制限に賛同を示しませんでした。そこで、締結されたのが「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)になります。

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【画像1】件名「御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(Ref:A03020484400)2画像目

 

同条約を日本は1900年に批准します。第1条は「陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すべし」と条約に付随する「規則」(以下、単に「規則」と表記)の遵守を求めています。では、「規則」にはいったい何が書かれているのでしょうか。捕虜についての規程は、第2章第4条から始まります。

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【画像2】件名「御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(Ref:A03020484400)21画像目

 

第4条には「俘虜は博愛の心を以て之を取扱ふへきものとす」と定められており、第5条以下に捕虜の扱い方が定められています。例えば、第7条には「政府は其の権内に在る俘虜を給養すべき義務あり」と定められ、食事等の供給を義務付けています。ここに、捕虜の取り扱いに関する国際的な取り決めを結んだことが確認できます。

1904年2月10日、日露戦争の宣戦詔書(Ref:A03020585900)には、「凡そ国際条約の範囲に於て一切の手段を尽し遺算なからんことを期せよ」との記載があり、国際条約の遵守をうたっています。こうした条約の遵守を物語るエピソードがあります。戦闘によって日本は70歳のロシア兵を捕らえました。ところが、1864年に締結した赤十字条約(戦地軍隊に於ける傷者及病者の状態改善に関するジュネーブ条約)では、第6条に「治療後兵役に堪へすと認めたる者は其本国に送還すへし」とあり、高齢の兵士はその対象と考えられたのです。その件について閣議に請議した資料が【画像3・4】となります。

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【画像3】

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【画像4】

【画像3・4】件名「敵国陸海軍衛生部員並俘虜ニシテ治療ノ後兵役ニ堪ヘスト認ムル者等帰国ヲ許可ス」(Ref: A01200220500)1,2画像目

 

この閣議請議書には、桂太郎首相以下、同内閣の閣員の花押が記され、赤十字条約を適用して高齢の捕虜を本国へ帰還させることが決定されています。

 

2 日本軍の捕虜管理

では、条約の遵守を掲げた日本は、ロシア兵捕虜をどのように管理したのでしょうか。

まず、言及するべきは捕虜についての情報を一元的に管理する組織を設置したことです。1904年2月21日に俘虜情報局が設置されます。組織の設置は、先ほど見た「規則」の第14条に掲げられています。ロシアも同様の組織を設置しており、開戦直後から両国は捕虜の扱いについて「規則」通りの運用を行っていたことが分かります。設置された俘虜情報局の局長には、陸軍次官石本新六が兼任する形をとりました。次に、その情報局ではどのような事務を行っていたのか、見ていくことにします。

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【画像5】

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【画像6】

【画像5・6】件名「俘虜情報局事務取扱規程制定の件」(Ref: C03020021700)3、9画像目

 

【画像5・6】は、「俘虜情報局事務取扱規程」と付表になります。そもそも、「規則」には「各俘虜に関する銘銘票を作る」とあり、捕虜それぞれに対して氏名や国籍などの情報を記した銘銘票の作成が俘虜情報局の職務の1つとなります。「事務取扱規程」には、その銘銘票のテンプレートが綴られており、どのような情報が記されようとしたのかという点がわかります。

以後、日本は「俘虜取扱規則」をはじめとする様々な規則を定めており、ハーグ陸戦条約の遵守を進めたことが分かります。特に、「大正7年 俘虜に関する書類(欧文)」(C10073232000)という簿冊には、「俘虜に関する法規」(C10073232200C10073232300)という小冊子が綴られており、その名の通り捕虜に関する法令が掲載されています。開戦に至る2月以降、続々と規則が定められています。

表1

【表1】1904年に制定された捕虜に関する法令

 

年表を見ればわかるように、宣戦詔書の前から規則を作成していたことがわかります。さらに、注目すべきものとして挙げられるのが「俘虜自由散歩及民家居住規則」になります。ハーグ陸戦条約及びその「規則」には、捕虜の自由散歩権についての記載はありません。日本は、協定をさらに進めた形で捕虜の権利を保障したといえるでしょう。では、「自由散歩」等の適用はどうだったか、次章で見ていくことにします。

 

3 「松山水曜会記事」から見る松山捕虜収容所の実態

ロシア兵捕虜の取り扱いをめぐって、これまで多くの研究が積み重ねられてきました。特に、これから紹介する松山に設置された収容所の状況については、松山大学での研究や『愛媛県史』の出版によって、多くの事項が分かっています。松山に多くの関心が向けられている背景には、日露戦争期に最初の捕虜収容所が設置された土地であったことが挙げられます。当初、松山では施設を新たに建設するのではなく、大林寺をはじめとする既存の建物を利用する形で4か所に収容所が設置されました。

【写真1】は、法龍寺に設置された捕虜収容所の当時の写真となります。収容所の様子がうかがえる写真については、坂の上の雲ミュージアムが所蔵している「法龍寺収容所外部の光景」を筆者が撮影したものになります。この写真からもわかるように、1つの収容所に対して、多くのロシア兵が生活していたことが見て取れます。

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【写真1】「法龍寺収容所外部の光景」(坂の上の雲ミュージアム所蔵資料より筆者が撮影)

 

 

捕虜の様子をうかがえる資料は、写真資料だけではありません。当センターのデータベースから簡単に閲覧できる資料として挙げられるのが「松山水曜会記事」になります。松山水曜会とはいったいどんな会だったのでしょうか?

当初、松山に設置された捕虜収容所は上記のとおり、4か所でした。戦局が拡大し、日本軍の勝利によって、捕虜数が増加傾向になると、収容所の数も増加していきました。1905年4月には、松山に4000名を超える捕虜が収容され、日露戦争期において最多の数となります。そして捕虜の数が増していく中で開かれたのが松山水曜会でした。その第1回目の会合は1904年11月30日に開催されています。

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【画像7】件名「37.12.1 俘虜情報局長へ松山俘虜収容所委員長より俘虜の状況詳細に知悉の為11.30第1回会合以後毎週水曜日会合を議し通訳に談話せしむ」(Ref:C06040910500)1画像目

 

【画像7】には開催理由として「俘虜人員増加するに従ひ彼等の状況を詳細に知悉するの必要なる」ことが挙げられ、毎週水曜日16時30分から19時までの間に収容所に勤務する通訳たちが集まることが決められています。日頃から捕虜と接する通訳の情報を共有することで、今後の対応などの改善を図るねらいがあったと推察できます。その通訳たちは第1回会合でどんな情報を共有したのか、次に議事録を見ていきましょう。

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【画像8】同上 (Ref: C06040910500)4画像目

 

檜枝通訳は、松山公会堂に収容されている8名の将校の個人名を挙げ、彼らが「大酒豪」であり、「品位を保つ」ことができず、他のロシア人将校たちから「将校の体面を汚すのみならず露国軍人一般の名誉を棄損するもの」だとみなされていると語っています。第1回会合は、それぞれの通訳が担当する捕虜のなかで、素行が気になった人物等について、その情報を共有する場であったことがわかります。第1回会合出席者は、5名の通訳のほかには、筆記者として記載されている収容所委員長・河野春庵騎兵大佐と松沢少尉の2名で、小規模な会合であったといえます。

また、定期的な会合である松山水曜会ですが、第5回ごろから議事録の内容に変化が見られます。各通訳の話にそれぞれの見出しがつくようになり、捕虜との日々のやり取りが垣間見えるものとなっていきます。例えば、「良好の兵卒」と題されたページを見てみましょう。

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【画像9】件名:良好の兵卒 (Ref:C06040911500)1画像目

 

「病室にありて熱心に医員の助手をなし勉強する者」へ「白の作業衣を貸与」したところ「大に喜」んでいる旨が記事には記されています。週1回開かれる会合の議事録を読むことによって、捕虜たちの日常を垣間見ることができるのです。また、「松山水曜会記事」で確認できるのは捕虜の日々の暮らしだけではありません。前章で確認した捕虜の管理体制がどのように適用されたのかという点も明らかになります。そこで、ハーグ陸戦条約よりも進んだ形で日本が認めた自由散歩権に注目してみましょう。まずは自由散歩権がどのような規定だったのかを確認します。

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【画像10】件名「俘虜自由散歩及民家居住規則規定の件」(Ref: C08070689700)1画像目

 

資料は、「俘虜自由散歩及民家居住規則規定の件」になります。同規定では、「宣誓を為したる者」は「俘虜収容所外一定の地域を限り自由散歩」ができることが定められています。また、同規定には宣誓書の様式も残されています。こうした様式に基づいて、ロシア兵捕虜は宣誓を行うこととなりますが、この宣誓をめぐって問題が起こります。

松山において自由散歩が行われることとなったのは1905年4月22日ですが、【画像11】はその3日前に開かれた第15回水曜会記事になります。

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【画像11】件名「自由散歩に関する宣誓に就て」(Ref: C06040920900)1画像目

 

同記事を見ると、ロシア兵捕虜は「宣誓」(プリシヤーガ)という言葉が「宗教上の語にして聖書の中にも此語を猥りに使用することを禁し」ていることが記されています。こうしたロシア兵に対して、日本は「宣誓」を「誓約」に変え、松山収容所所長河野がロシア兵に規則を説明する事態となります。説明を受けた捕虜たちは、自由散歩の誓約を交わしますが、最初の署名者は対象の3分の1に過ぎなかったといわれています。さて、こうした波乱を含んだ自由散歩規則でした。では、その自由散歩が実際に行われた日はどんな様子だったでしょうか。

水曜会記事には、第1回自由散歩に関する記事も掲載されています。「一番町俘虜将校自由散歩第1日状況」を見てみましょう。

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【画像12】件名「一番町俘虜将校自由散歩第1日状況」(Ref: C06040922300)1画像目

 

「当日は何れも悦んで外出」しており、相互に注意しながら集合場所に時間前に集まっていたことや「自由散歩は我等俘虜に取りて至極難有きこと」と話す者がいたことなど、直前の波乱が嘘のように、自由散歩が行われたことが分かります。ただし、「自由散歩は圧制という熟語なり」という記事があり、そこには誓約後、むしろ外出できる時間が減っているという不満があがっていることが指摘されています。自由散歩権をめぐってはこうした軋轢があったことも1つの事実でした。

また、坂の上の雲ミュージアム所蔵「ロシア兵捕虜写真帖」には「自由散歩俘虜将校於道後公園自転車運動」という写真があります。写真2は、筆者がその写真を撮影したものとなります。道後公園をロシア兵捕虜が自転車を漕いでいる様子が分かります。

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【写真2】「自由散歩俘虜将校於道後公園自転車運動」(坂の上の雲ミュージアム所蔵「ロシア兵捕虜写真帖」より筆者が撮影)

 

このように水曜会記事では、捕虜の生活や各々の性格などが記されています。他方で、日露の戦局について捕虜が予想している記事もあります。

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【画像13】件名「バルチック艦隊に就て」(Ref: C06040923800)1画像目

 

本記事と同日公開された動画「【レミニス アジ歴】インターネット公開資料で見る「日本海海戦」」では、日露戦争における日本の勝利を決定づけた日本海海戦について特集しました。動画で紹介したように、バルチック艦隊はどのルートを通ってウラジオストクまで航行するか、日本側は日本海海戦直前までつかめませんでした。こうした状況の中で開かれた第17回水曜会記事(1905年5月17日)には、小笠原通訳がロシア海軍将校の捕虜とバルチック艦隊について話した内容が記載されています。

ロシア海軍の将校曰く「日本艦隊の根拠地は必すや濟物浦(注:現在の韓国・仁川)」であり、どのような戦いが繰り広げられるか予想をしている様子を伺い知ることができます。5月27日~28日にかけて繰り広げられた日本海海戦では、バルチック艦隊に対して大きな損害を与えました。当時の捕虜たちはその結果を「少しも信用しなかった」(C06040926700、1画像目)という通訳の報告が上がっています。

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【画像14】

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【画像15】

【画像14・15】件名「故海軍大佐ボイスマン病状等」Ref: (C06040940600)1、2画像目

 

ところで、松山捕虜収容所に収容されたのち、帰国できずに日本の地で亡くなった兵士もいます。画像14・15は、ロシア海軍大佐ワシリー・ボイスマンの病状が記されている記事になります。ボイスマンは、9月12日に入院して、15日には危篤状況に陥ります。記事には15日以降のボイスマンの病状が日ごとに記されています。医官による治療も実らず、21日には亡くなります。

現在、松山大学の裏手には、亡くなったロシア兵捕虜の墓地があります。ボイスマンの墓は、写真のように大きくそびえ立っています。ボイスマンは同地で亡くなった軍人の中でも位が高い人物でした。また、同墓地にはボイスマンのほかに97名のロシア兵の墓もあります。祖国に戻ることなく亡くなった兵士たちは、今もこの松山の地に眠り続けています。

写真3

【写真3】「ワシリー・ボイスマンの墓」(愛媛県松山市「ロシア兵墓地」において筆者撮影)

 

4 おわりに

日露戦争は、捕虜の取り扱い方を定めたハーグ陸戦条約が適用された最初の戦争でした。国際的な標準の中で、捕虜をどのように扱うかという問題は、戦争相手国の文化をどのように理解するかという点にも関わってきます。例えば、自由散歩権の適用の際、「宣誓」という文言をめぐって宗教上の問題が浮上したという先ほどの例は、それを証左する事例といえます。

異国の文化や習慣を国内で生活する外国人捕虜にどの程度まで認めるのか、またそれが地域社会からどの程度まで受け入れられるのかという点は、現代にも通底する問題です。

では、日本国内で受け入れてきたロシア兵捕虜の扱いについて、ロシアはどのように感じていたのでしょうか?

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【画像16】件名「露国俘虜受領委員在本邦同国俘虜に対する帝国の優遇感謝の件」(Ref:C03026988100)1画像目

 

加藤高明外務大臣が、俘虜受領委員ダニロフ中将と面会した際の要領を寺内正毅陸軍大臣に報告している資料となります。ダニロフ中将は、捕虜が「懇到克く歓待」を受け、日本国民が「懇篤なる同情」を寄せたことに対して、加藤外務大臣へ感謝の意を表しています。こうしたロシア側から捕虜の取り扱い方について、感謝の意を表明される資料(C03027402100)は、ほかにもあります。日本の捕虜政策が国際的な取り決めを遵守していたことがわかる資料といえるでしょう。

本論では、日露戦争期の捕虜について、特に「松山水曜会記事」を中心に紹介をしてきました。ほかにも当該期の捕虜に関する資料はたくさんあります。ぜひ、ご覧ください。

※資料の引用に際しては、片仮名を平仮名に変更するなど、読みやすさを考慮して適宜表記を改めた部分があります。

 

《参考文献》

    • 千葉功『旧外交の形成』(勁草書房、2008年)
    • 内海愛子『日本軍の捕虜政策』(青木書店、2005年)
    • 喜多義人「日本軍人の捕虜に関する国際法知識」『法学紀要』(日本大学法学部法学研究所、第48号、2006年)
    • 喜多義人「ジュネーブ条約締約国間の日露戦争」黒沢文貴・河合利修編『日本赤十字社と人道援助』(東京大学出版会、2009年)
    • 喜多義人「日露戦争の捕虜問題と国際法」『軍事史学』(第四十巻第二号、2004年)
    • 喜多義人「日露戦争と人道主義」『日本法学』(第八十巻第二号、2014年)
    • 村田仁「日露戦争期におけるロシア軍捕虜への待遇」『皇學館史学』(皇學館大學史学会、第37号、2022年)
    • 松下佐知子「日露戦争時のロシア人捕虜収容所再考」『日本歴史』(第909号、2024年)
    • 『愛媛県史近代 上巻』(1986年)

 

〈アジア歴史資料センター調査員 前川友太〉