アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第47号

2025年5月27日

特集(1)

日本海海戦の“前哨戦”~バルチック艦隊と外交官たちの情報収集~

はじめに

日露戦争最中の1905年5月27日未明、五島列島西方沖を警戒中の仮装巡洋艦信濃丸が対馬海峡へ向かうバルチック艦隊を発見しました。その後、バルチック艦隊と東郷平八郎率いる連合艦隊との間に生じた日本海海戦の顛末についてはよく知られています。ロシア側は壊滅的な損害を受け、司令長官のジノヴィー・ロジェストヴェンスキー自身も負傷し、捕虜となりました。

日本側はバルチック艦隊が日本海に姿を現すまで、ただ待ち続けていたわけではありません。バルチック艦隊が本拠地のバルト海を出航する以前から、その情報を探っていたのです。そのような情報収集を主導したのは海軍軍令部でしたが、海外での海軍の情報収集能力には限界があります。そこで手を貸したのが在外公館という形で国外に拠点を持つ外務省でした。

「戦前期外務省記録」には『日露戦役関係露国波羅的艦隊東航関係一件』と名付けられた5冊の簿冊が収められており、外交官たちが国外で行った情報収集の成果がまとめられています。この記事では主にこれら簿冊を紐解きながら、日本海海戦の“前哨戦”ともいえる彼らの奮闘の一端を追っていきましょう。

【画像1】C05110083900、29~30画像目

【画像1】件名「第1編 露国増遣艦隊に対する作戦準備/第7章 露国増遣艦隊東航始末」(Ref.C05110083900、29~30画像目、一部編集)、日本海軍の戦争史資料に掲載されたバルチック艦隊の航路図

 

バルチック艦隊の出発 

東アジアにおけるロシアの海軍力は開戦当初から日本のそれに劣っており、ロシア側は日露開戦直後より、バルト海からの増援艦隊派遣を検討していました。5月初めにはロジェストヴェンスキーがバルチック艦隊(正確には第二太平洋艦隊)の司令長官に任命されます。日本側は、遅くとも5月下旬にはこのようなロシア側の動きをつかんでいたようです(件名「分割1」、Ref.B07090609000、6画像目)。

バルチック艦隊の日本海へ向けた航海とその結末については、今では様々な書籍で語られていますが、当時の日本側にとって、バルチック艦隊がいつ太平洋へ向けて出発するのか、あるいはそもそも本当に派遣されるのか、といった正確な情報の収集は容易ではありませんでした。

例えば、7月14日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに駐在する牧野伸顕公使は、バルチック艦隊の一部が東アジアへ向け出発したとの情報をロシア人協力者から得て、東京へ伝えました。しかし、ベルリンの井上勝之助公使がいくつかの情報源から誤報の可能性を指摘し、結局、牧野公使自身も協力者に再確認させたところ誤りだったと報告しています(件名「分割1」、Ref.B07090609000、34, 43, 45, 47画像目)。ところが9月12日になると、今度は井上公使がドイツ「ヴォルフ」通信社の報道をもとにバルチック艦隊の出発を伝え【画像2】、反対に牧野公使が、「露国内部の筋」から得た情報として1904年中のバルチック艦隊派遣は断念されたとの電報を送りました【画像3】。後述するとおり、バルチック艦隊の主力が実際にロシアを後にするのは1904年10月半ばのことですから、結局どちらも誤報だったことになります。

【画像2】B07090609100、2画像目

【画像2】件名「分割2」(Ref.B07090609100、2画像目、一部編集)、井上公使の電報(訳文)

【画像3】B07090609100、6画像目

【画像3】件名「分割2」(Ref.B07090609100、6画像目)、牧野公使の電報(訳文)

 

依然敵国内にあるバルチック艦隊に関する情報収集が困難であったことは想像に難くありません。またそもそも、バルチック艦隊派遣の実現性自体を疑問視する声もありました。例えば本野一郎駐フランス公使は、フランスの新聞「ル・タン」に掲載された記事の内容を報告していますが、それによれば、バルト海から日本海へバルチック艦隊を送ることは「何れの点より観るも…到底実行し得へからざるもの」でした(件名「分割1」、Ref.B07090609000、16画像目)。バルチック艦隊出発後の12月にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が大山綱介公使に、バルチック艦隊は東アジアへ着く前に呼び戻されることになるのではないかとの推測を述べています【画像4】。ロシアは艦隊の予定航路上に自国の拠点を有しておらず、補給に深刻な困難を抱えていたのです。

【画像4】B07090609900、61画像目

【画像4】件名「分割2」(Ref.B07090609900、61画像目、一部編集)、大山公使の電報(訳文)

 

実のところロシア国内にも派遣への反対論があり、皇族の1人コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公は9月31日、自身の日記に、艦隊派遣に賛成する人々がいる一方で、バルチック艦隊の派遣は「時機を逸しており、馬鹿げている」とする声もあがっていると書き記しています。彼によれば、同じく皇族で海軍軍人でもあり、ロシア太平洋艦隊の整備にも携わっていたアレクサンドル・ミハイロビッチ大公もそうした意見を有しており、皇帝ニコライ2世へ直接反対を伝えていたようです。

【画像5】B07090610600、28~29画像目

【画像5】件名「分割1」(Ref.B07090610600、28~29画像目、一部編集)、1905年4月の井上公使の電報、ドイツ新聞上ではバルチック艦隊不利との論調が広がっていると報告しています

 

もちろん、外交官たちから送られた情報の全てが不正確だったわけではありません。10月9日、秋月左都夫駐スウェーデン公使は、皇帝ニコライ2世が出航前の視察のため、バルチック艦隊のもとへ向かったというロシアからの報道を報告しました【画像6】。この情報は正しく、その後10月15日に艦隊は東アジアへ向けて抜錨することとなります。

【画像6】B07090609100、37画像目

【画像6】件名「分割2」(Ref.B07090609100、37画像目)、秋月公使の電報(訳文)

 

ヨーロッパのバルチック艦隊

バルチック艦隊がバルト海から北海へ出るためにはスウェーデン、ノルウェーとデンマークの間の海域を抜ける必要がありました。特にデンマークは皇帝ニコライ2世の母親・皇太后マリア・フョードロヴナの母国で、バルチック艦隊は出航から2日後、10月17日にそのデンマークにあるランゲラン島沖に停泊し、石炭の積み込み作業を始めました。三橋信方駐オランダ公使(デンマークも管轄)はバルチック艦隊の通過に備えて手筈を整えており(件名「分割5」、Ref.B07090609400、1画像目)、17日のうちに艦隊の出現を東京へ報告しています【画像7】。

【画像7】B07090609100、41画像目

【画像7】件名「分割2」(Ref.B07090609100、41画像目)、三橋公使の電報(訳文)

【画像8】B07090609200、14画像目

【画像8】件名「分割2」(Ref.B07090609200、14画像目)、秋月公使の電報(訳文)

 

その後1週間も経ないうちに北海航行中のバルチック艦隊がイギリスの漁船団を日本の水雷艇と取り違えて攻撃し、英露間に緊張が走ることとなります。このドッガーバンク事件そのものはよく知られていますが、ここではそれに関連した少々コミカルなやり取りを紹介しましょう。事件後、フランスの「ル・タン」紙が、日本人の「間諜(スパイ)」がスウェーデンのストックホルムを拠点にロシア艦隊へ水雷攻撃の準備を進めていたと報じました。この件について秋山公使から見解を尋ねられたスウェーデンの外務大臣は、「斯の如き間諜」が入り込んでいるとの疑いは全く抱いていないと述べ、「公使館員」を除き、スウェーデンに日本人はいないとはずだと主張したのです【画像8】。もちろん日本は北海でバルチック艦隊への攻撃などは行ってはいません。しかし、日露戦争中の諜報活動で有名な明石元二郎陸軍大佐が活動拠点としたのが当時ロシアと国境を接していたスウェーデンであり【画像9】、彼はスウェーデン軍人とも接触を持っていたといわれています。また秋月公使自身、バルチック艦隊の動向を報告していたことは先述のとおりです。いうなれば、その「公使館員」たち自身がある種の「間諜」だったわけです。

【画像9】B12080958600、57画像目

【画像9】件名「7.明石元二郎大将述 落花流水 自昭和十三年五月」(Ref.B12080958600、57画像目)、明石大佐の手記に描かれた連絡網。「瑞典」はスウェーデンのこと

 

スウェーデンの外相は日本の諜報活動を黙認しているととられかねない姿勢を示したことになりますが、同様に日本に好意的な態度をみせていた国として、イギリスやアメリカが挙げられます。両国は公式には中立国であり、日露戦争に直接参戦しようとしたわけではありませんが、それは日本がイギリス政府やアメリカ政府、あるいはイギリス人やアメリカ人個人から一切の協力を得られなかったということではないのです。バルチック艦隊をめぐる情報収集についても、日本の外交官たちは様々な援助を受けています。

10月末、ロジェストヴェンスキーの艦隊はスペインのヴィーゴ港に到着しますが、ドッガーバンク事件が英露間の外交問題に発展したことを受け、本国政府から一時この港で待機するようにとの指示を受けることになります。在スペイン日本公使館はこの機をとらえ、荒井金太外務書記生を現地へ派遣しました。報告書によれば、荒井は情報収集にあたって現地の新聞社などに加え、アメリカ領事やイギリスの「テレグラフィック・カンパニー」関係者の協力を得たほか、アメリカ領事の斡旋によって、あるイギリス人から艦船の写真も入手しています【画像10、11】。

【画像10】B07090609900、64~65画像目

【画像10】件名「分割2」(Ref.B07090609900、64~65画像目、一部編集)、荒井書記生の報告

【画像11】B07090609900、69画像目

【画像11】件名「分割2」(Ref.B07090609900、69画像目)、荒井書記生が入手した写真

 

同様の協力はヨーロッパの他の場所でもみられます。例えばイタリアの大山公使は小村寿太郎外務大臣に宛てた報告のなかで、現地イギリス大使館付の陸海軍武官、さらにイギリスの通信社「ロイター」社(資料中では「ルーター」)の通信員たちが情報収集協力に応じていると述べています【画像12】。他にも牧野駐オーストリア=ハンガリー公使は、ロシア・サンクトペテルブルクに駐在する英「タイムズ」紙の通信員から情報提供を受けていました(件名「分割5」Ref.B07090610200、19画像目)。

【画像12】B07090610100、44画像目

【画像12】件名「分割4」(Ref.B07090610100、44画像目)、大山公使の報告

 

アフリカからアジアへ

10月31日の夜、バルチック艦隊は本国政府からヴィーゴ港出発の許可をもらい、北アフリカ、モロッコのタンジールへと向かいました。

日露戦争当時、アフリカ、そしてその先のアジアでは、日本の同盟国イギリスとロシアの同盟国フランスが多くの植民地を有していました。フランスはこの戦争においてあくまで中立国であり、加えて日露開戦から約2か月後にはイギリスとの間に英仏協商を成立させていました。フランスとイギリスは友好国同士でありながら、それぞれの同盟国が戦争状態にあるという難しい立場に置かれていたのです。とはいえ日本がイギリスから便宜を受けていたように、ロシアもフランス側からある程度の援助を受けていました。タンジールを出発後、喜望峰経由で進む本隊とスエズ運河を抜ける支隊に分かれたバルチック艦隊が合流地に選んだのは、フランス領マダガスカルだったのです。

ロジェストヴェンスキーの本隊がマダガスカルに姿を現すのは12月末のことですが、本野駐フランス公使は12月2日にはすでに、ノルウェー人スパイをマダガスカルへ派遣してはどうかと東京に提案しています(件名「1.仏国」、Ref.B07090612000、3画像目)。提案は承認され、このスパイは実際に現地で調査を行ったようです。簿冊『日露戦役関係露国波羅的艦隊東航関係一件 第三巻』(Ref.B07090610300)には、艦隊の停泊図を含む報告書が残されています【画像13】。

【画像13】B07090610700、20画像目

【画像13】件名「分割2」(Ref.B07090610700、20画像目)、ノシ・ベ島におけるバルチック艦隊の停泊図

 

そのバルチック艦隊は、3月中旬までマダガスカルで待機することになりました。石炭の輸送を請け負っていたドイツ船会社の船団が日本の攻撃などを懸念して協力に難色を示したために足止めされたのです。加えて1905年1月には旅順要塞が日本軍の手に落ち、旅順港に停泊するロシア第一太平洋艦隊も壊滅しました。このような情勢変化を踏まえてバルチック艦隊は、増援の到着まで出発をさらに延期させました【画像14】。

【画像14】B07090610100、34画像目

【画像14】件名「分割4」(Ref.B07090610100、34画像目)、ロシアの新聞「ノーヴォエ・ヴレーミャ」(資料中では「ノオウォエ、ウレミヤ」)上で増援艦隊の派遣などが議論されていることを伝える牧野公使の報告

 

その後、増援の一部と合流したバルチック艦隊がマダガスカルを離れると、その情報は日本側にも複数のルートからもたらされました。興味深いところでは、イタリアの王族が直接大山公使に伝えたという報告が残されています【画像15】。

【画像15】B07090610100、1画像目

【画像15】件名「分割1」(Ref.B07090610100、1画像目)、大山公使の電報

 

一方、イギリス植民地シンガポールでは、田中都吉領事が東南アジアへ向かったはずのバルチック艦隊を追っていました。彼は4月8日付の電報で、ロシアの艦隊がマラッカ海峡に位置するワン・ファザム・バンク灯台付近を通航していたとの情報をイギリスの郵便船から受取ったと報告しています【画像16】。田中は続けて、湾港の関係者やイギリスの海軍士官から、ロシア艦隊の編成についても情報を得ていました【画像17】。

【画像16】B07090610600、15画像目

【画像16】件名「分割1」(Ref.B07090610600、15画像目、一部編集)、田中領事の電報

【画像17】B07090610600、21画像目

【画像17】件名「分割1」(Ref.B07090610600、21画像目、一部編集)、田中領事の電報

 

外交資料のなかにはイギリスだけでなく、アメリカの植民地当局者と協力を行っていた証拠も残されています。アメリカ統治下のフィリピンに駐在していた成田五郎領事は、アメリカ軍関係者らとの間に、現地で受信された電報の提供を受けるという約束を取り付けていたのです【画像18】。

【画像18】B07090610600、60画像目

【画像18】件名「分割1」(Ref.B07090610600、60画像目)、成田領事の電報

 

日本の外交官たちが奔走するなか、ロジェストヴェンスキーとその艦隊は4月半ばにフランス領インドシナに到着し、そこで後続艦隊(第三太平洋艦隊)の到着を待つこととなりました。

 

香港とインドシナ

バルチック艦隊がフランス領インドシナに身を潜めている間、日本側の情報収集拠点の1つとなったのはイギリス植民地の香港でした。現地の野間政一領事は艦隊の動向調査のため、ロンドン出身のジャーナリストであり、香港で「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」紙を創刊していたアルフレッド・カニンガムに協力を要請し、カニンガムは4月12日に「プリンツ・ハインリヒ」号でシンガポールへ向かいました(件名「13.香港」、Ref.B07090613200、21画像目)。

そしてこの「プリンツ・ハインリヒ」号がインドシナのカムラン湾に停泊するバルチック艦隊を目撃することになるのです。カニンガム(資料中では「カンニングハム」)からの発見報告は野間領事経由で17日には東京へ伝達されました【画像19】。

【画像19】B07090610600、43画像目

【画像19】件名「分割1」(Ref.B07090610600、43画像目、一部編集)、野間領事の電報

 

4月22日、バルチック艦隊は、同じくフランス領インドシナのヴァン・フォン湾へ移動を始めました。カムラン湾から艦隊が姿を消したこと自体は同湾を訪れたカニンガムから野間領事へ報告がなされますが【画像20】、艦隊の正確な位置は不明となりました。野間領事が、ヴァン・ファン湾(資料中では「「ホンコー」湾」)にバルチック艦隊が停泊しているとの目撃情報を得るのは4月30日になってからです【画像21】。この情報を提供したのは香港に入港したイギリス船の船長でした。

【画像20】B07090610700、13画像目

【画像20】件名「分割2」(Ref.B07090610700、13画像目)、野間領事の電報

【画像21】B07090610700、88画像目

【画像21】件名「分割2」(Ref.B07090610700、88画像目、一部編集)、野間領事の電報

 

その後5月17日に、今度はドイツ船がバルチック艦隊の出航に出くわしたとの情報を野間領事に提供しました【画像22】。この報告は事実でした。バルチック艦隊は待ちわびた後続艦隊との合流を果たした後、14日にインドシナを離れていたのです。長い航海で疲弊していたうえ、東郷平八郎の連合艦隊に比べて劣勢にあったバルチック艦隊は、日本側の攻撃をなんとかやり過ごし、ロシア極東のウラジオストク港へたどり着くことを目指していました。そこでとり得るルートは3つありました。1つは日本列島の太平洋側を回り、宗谷海峡を経由するもの、もう1つは津軽海峡から日本海へ入るもの、そして対馬沖を抜ける最短ルートです。艦隊を率いるロジェストヴェンスキーは対馬沖ルートに成功の期待をかけていました。

【画像22】B07090610800、91画像目

【画像22】件名「分割3」(Ref.B07090610800、91画像目、一部編集)、野間領事の電報

 

おわりに

皇帝ニコライ2世は5月29付の日記に、2日前に対馬沖で発生した海戦について、次のように書いています。

「我が戦隊と日本艦隊との戦闘に関して、相矛盾する知らせや情報が今日届き始めた—全て我々の被害に関するもので、彼ら[日本側]の損害については完全に黙している。このような情報不足がひどく気を滅入らせる。」

日本側の損害に関する知らせがなかったのは情報不足のせいだけではありませんでした。日本海海戦に参加したロシア側艦艇38隻のうち、目的地のウラジオストクへ何とかたどり着いたのは巡洋艦アルマーズと2隻の駆逐艦のみだったのに対し、日本側が失ったのは3隻の水雷艇だけでした。そもそも日本側に大きな被害は生じていなかったのです。しかし日記の記述は、人工衛星もインターネットもない当時において正確な情報を素早く得ることがいかに難しかったかを物語っているといえるでしょう。バルチック艦隊の壊滅という「恐ろしい知らせ」が最終的に確認されたとニコライ2世が書き記したのは、やっと6月1日になってからのことでした。

バルチック艦隊に関する日本の外交官たちの報告の多くは艦隊の実際の動きから数日遅れで東京に届くのが常でしたし、艦隊の正確な位置を見失うこともしばしばでした。加えてその報告に相矛盾する情報が含まれる場合もあったことはこの記事でみてきたとおりです。しかし当時の情報収集の難しさを踏まえれば、そうした錯綜には仕方のない面があったといえるでしょう。外交官たちは新聞報道の収集や現地への出張も含む様々な手段を用いて、バルチック艦隊の動向を大まかには捉えていたのです。また、時には外国人協力者たちが重要な情報をもたらすこともありましたが、彼らとの協力関係を築いたのも外交官たちでした。

日本海海戦の主役は海軍軍人たちであり、外交官たちは登場しません。しかし東郷平八郎率いる連合艦隊の華々しい戦果の影には、彼らの奮闘があったのです。

 

※資料の引用に際しては読みやすさを考慮して表記を改めた部分がある。また20世紀初めのロシアでは現在と異なりユリウス暦が利用されていたが、本文中の日付はすべて標準的な暦で記している。

 

【参考文献】

    • 稲葉千春『明石工作:謀略の日露戦争』丸善株式会社、1995年
    • 稲葉千春『バルチック艦隊ヲ捕捉セヨ:海軍情報部の日露戦争』成文社、2016年
    • 大江志乃夫『バルチック艦隊:日本海海戦までの航跡』中公新書、1995年
    • コンスタンティン・プレシャコフ『日本海海戦 悲劇への航海:バルチック艦隊の最期(上・下)』稲葉千春訳、NHK出版、2010年
    • 谷一巳「日露戦争をめぐるイギリス外交、一九〇四-一九〇五年:ヨーロッパ大国間関係の再編」『法学政治学論究』第115号(2017年12月)、211–244頁
    • Neilson, Keith, Britain and the Last Tsar, British Policy and Russia, 1894–1917, reprint 1995, Oxford: Clarendon Press, 2003
    • Nish, Ian, The Origins of the Russo-Japanese War, New York: Addison Wesley Longman Limited, 1985
    • Айрапетов. О.Р. На пути к краху. Русско-японская война 1904–1905 гг.. Военно-политическая история. М., 2014
    • Из дневника Константина Романова // Красный архив. 1930 т.6 (43). С. 92–115
    • Николай II. Дневники 1904–1907 / Под ред. К. А. Залесского. М., 2023
    • Русско-японская война 1904–1905 гг. К. 6 / Под ред. Исторической комиссии по описанию действий флота в войну 1904-1905 гг. при Морском Генеральном Штабе. Петроград, 1917
    • Русско-японская война 1904–1905 гг. К. 7 / Под ред. Исторической комиссии по описанию действий флота в войну 1904–1905 гг. при Морском Генеральном Штабе. Петроград, 1917

 

〈アジア歴史資料センター研究員 岡部克哉〉