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孫文
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孫文

興中会結成~日本亡命~中国同盟会結成
レファレンスコード:B03050086800
件 名:2 清国情勢及秘密結社 5
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1枚目から31枚目にかけて、孫文(孫逸仙)の率いた「革命党」(中華革命党)の来歴がまとめられています。このうち、2枚目に、孫文の経歴とともに「興中会」結成の経緯が述べられ、3枚目から6枚目右にかけて、会の章程(規則)が紹介されています(中国語)。9枚目から11枚目右にかけて、孫文が最初に日本に亡命した頃から親交のあった日本人について述べられています。14枚目から17枚目にかけて、「中国同盟会」の結成の経緯が記されています。
レファレンスコード:B03050063900
件 名:1 明治31〔30〕年8月18日から〔明治32年〕1月25日
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1枚目から2枚目にかけて、反乱計画の失敗により清国を逃れた孫文(孫逸仙)が、日本、アメリカを経てイギリスに渡った後にロンドンの清国公使に逮捕されたことを伝える、神奈川県知事から外務大臣に宛てた報告があります。9枚目には、釈放後に日本を訪れた孫文が横浜に滞在し、憲政党員の犬養毅と手紙のやり取りをしていることを伝える神奈川県知事の報告があります。
辛亥革命~中華民国臨時大総統
レファレンスコード:B03050643000
件 名:1 明治44年10月16日から明治44年12月5日
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3枚目から4枚目にかけて、辛亥革命の発端となった武昌蜂起の直後に、鶴岡永太郎という人物が国外滞在中であった孫文(孫逸仙)と密会したことについての報告があり、孫文が、武昌蜂起が自分の指揮の下で行われたこと、日本に公的に滞在することを日本政府に認めてほしいことなどを述べたと記されています。
レファレンスコード:B03050624900
件 名:2 明治44年12月20日から明治44年12月25日
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1枚目に、孫文(孫逸仙)が臨時大総統選挙前に革命軍に送った電報の中で、自身は政治的な地位を望む気持ちはなく、大統領(大総統)には他の人物を推すつもりであると述べたことを伝える報告があります。47枚目には、孫文がイギリス船に乗って上海に到着したことを伝える報告があります。
レファレンスコード:B03050625000
件 名:3 明治44年12月26日から明治44年12月31日
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26枚目と28枚目に、孫文(孫逸仙)が南京における各省都督代表による選挙で全18票中の17票を獲得し、中華民国臨時大総統に選出されたことを伝える明治44年(1911年)12月29日付の報告があります。
レファレンスコード:C08041040300
件 名:自明治45年1月~至明治45年5月 清国事変日誌 第3艦隊司令部(1)
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1枚目から57枚目にかけて、辛亥革命(清国事変)の際に中国方面に派遣されていた日本海軍の第3艦隊の日誌があります。このうち、2枚目から5枚目にかけて、明治45年(1912年)1月1日の記録があり、関係者が、孫文(孫逸仙)が中華民国臨時大総統に選出されたこと、上海において孫文に対する人々の支持が高まっていることなどを述べたと記されています。
レファレンスコード:B03050625100
件 名:4 〔明治44年〕12月31日から〔明治45年〕1月5日
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6枚目左に、中華民国臨時大総統に選出された孫文(孫逸仙)が南京に到着したことを伝える、明治45年(1912年)1月1日付の報告があります。8枚目に、南京で孫文の大総統就任式が行われ、孫文が新政府の樹立を宣言するとともに、清朝(満州朝廷)を倒すことを第一に掲げた誓約を行ったことを伝える報告があります。10枚目には、孫文の誓約の概要が記された報告があります。
国民党結成~日本亡命~中華革命党結成~護法運動
レファレンスコード:C08041030000
件 名:第3艦隊 3 明治44年 自72号~至130号(10)
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1枚目から54枚目にかけて、辛亥革命(清国事変)の際に中国方面に派遣されていた日本海軍の第3艦隊の日誌があります。このうち、1枚目に、明治45年(1912年)2月13日の閣議で孫文(孫逸仙)が中華民国臨時大総統を辞任し、後任に袁世凱を推薦することなどが決定されたと記されています。
レファレンスコード:B03050704400
件 名:2 明治45年7月29日から大正元年9月30日
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26枚目に、中国同盟会、統一共和党、国民公党、国民共進(協心)会、共和実進(促進)会の5つの政党が合同して国民党を結成することが宣言されたことを伝える新聞記事があります。孫文はこの政党の理事長の職に就きました。
レファレンスコード:B03050070200
件 名:5 大正2年7月31日から大正2年8月9日
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6枚目に、孫文(孫逸仙)が「オウコウケン」と名前を変えて福州を発ち、台湾を経由して、「信濃丸」という船で日本に向かったことを伝える報告があります。36枚目右に、孫文が大正2年(1913年)8月8日の朝に門司港に入港し、そのまま上陸せずに神戸に向かったことを伝える報告があります。51枚目に、孫文が8月9日の朝、神戸に到着したことを伝える報告があります。
レファレンスコード:B03050076300
件 名:5 大正3年7月4日から大正3年7月18日
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47枚目に、大正3年(1914年)7月8日に築地の料理店で「中華革命党」(支那革命党)の発会式を兼ねた党員の会合が開かれ、孫文が約1時間にわたって演説を行ったことを伝える報告があります。
レファレンスコード:B03050082300
件 名:7 〔大正4年〕10月26日から〔大正4年〕11月29日
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3枚目に、亡命により東京滞在中であった孫文の大正4年(1915年)10月15日の行動を伝える報告があります。孫文はこの日に宋慶齢と結婚したともいわれており、この報告中でも「同宿の宋慶林(宋慶齢)を伴い自働車にて外出」という記述があります。
レファレンスコード:B03041651800
件 名:15 支那並支那人ニ関スル報告(第四十二報)
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1枚目から9枚目にかけて、大正6年(1917年)9月の時点での中国の政治状況についての報告があり、このうち、1枚目から2枚目にかけて、孫文(孫逸仙)が広東で軍政府を樹立し大元帥となったことが記されています。
レファレンスコード:B06151185100
件 名:ヨッフェ来訪ヨリ後藤ヨッフェ私的交渉ニ到ル迄ノ経過 分割1
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52枚目に、上海を訪れたソヴィエト連邦政府代表のヨッフェと孫文が互いに行き来していることを伝える報告があります。この報告の直後に、両者は、中華民国の統一運動に対するソヴィエト連邦政府の支援を誓う「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表しました。
大アジア主義講演~没後
レファレンスコード:B03050764300
件 名:6 大正13年11月18日から大正13年11月29日
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45枚目から49枚目にかけて、兵庫県知事から内務大臣等に宛てた、大正13年(1924年)11月28日の孫文の行動についての報告があり、孫文がこの日、神戸高等女学校で神戸商業会議所主催により、「大亜細亜(アジア)問題」と題する講演を行ったことが記されています。47枚目から49枚目は講演の内容です。
レファレンスコード:B03050056800
件 名:2.二月/1 大正14年2月2日から大正14年2月12日
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2枚目から8枚目にかけて、病に倒れた孫文について、危篤、死亡といった様々な情報が流れていることと、その影響を報告する文書があります。11枚目には、孫文が大正14年(1925年)2月1日夜に死去したという報告があります(孫文の死去は実際には3月12日です)。
レファレンスコード:B03050057000
件 名:3.三月/1 大正14年3月2日から大正14年3月17日
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20枚目左から24枚目にかけて、大正14年(1925年)3月12日の孫文の死去直後のいくつかの報告があり、中国国民党や中国共産党に対する孫文の死の影響が述べられています。
レファレンスコード:B03050148300
件 名:6 大正14年3月25日から大正14年5月21日
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2枚目から4枚目にかけて、大正14年(1925年)5月9日に東京・芝の増上寺で開かれた孫文の追悼会についての報告があり、加藤高明首相らから花輪や供物の寄贈があったことが記され、主催者の中には、孫文と親交の深かった頭山満とともに逓信大臣の犬養毅の名前も挙げられています。
レファレンスコード:C04016650100
件 名:南京に於ける故孫文移柩式参列報告(2)
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10枚目から50枚目にかけて、1929年5月に行われた、北京郊外に埋葬されていた孫文の遺体を南京東部の中山陵(孫文の墓陵)に移送した、「総理奉安」と呼ばれる儀式について書かれた『総理奉安須知』の一部があります(中国語)。このうち、15枚目に、孫文の肖像写真と遺嘱(遺言)が掲げられています。17枚目から21枚目にかけて、中山陵の外観と内部の写真があります。
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