日本の学校制度 ~小学校を卒業したら…~

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教育の義務と権利

  • (1) 枢密院会議筆記

    (1) 枢密院会議筆記

小学校を卒業すると、次に進学する学校はどこでしょうか。中学校ですね。現在の日本では、日本国憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とある通り、国民には教育を受けさせる義務があると同時に教育を受ける権利を持っています。義務教育課程に相当する学校が、小学校(または特別支援学校の小学部)と中学校(または中等教育学校の前期課程または特別支援学校の中学部)です。小学校に6年間通い、引き続き中学校に3年通うことが法令で定められています。それぞれの学校での各修業年限から、義務教育課程の学校制度は「六・三制」と呼ばれています。義務教育以外の高等学校3年・大学4年を合わせた現在の学校制度を「六・三・三・四制」と呼ぶこともあります。

このような学校制度は、昭和22年(1947年)に教育基本法と共に制定された学校教育法で定められたもので、明治期以来の戦前の学校制度が大きく変更されるかたちで成立しました。 (1) は学校教育法案を審議した際の会議録です。冒頭部分に、変更の理由として、

  1. (1) 教育の機会均等
  2. (2) 普通教育の普及と男女差別の撤廃
  3. (3) 学校制度の単純化
が挙げられています。これらの点に注目しながら、アジ歴の資料で戦前の学校制度の移り変わりを見てみましょう。

小学校の義務教育化

  • (2) 『学制』

    (2) 『学制』

  • (3) 小学校令

    (3) 小学校令

日本最初の近代学校制度は明治6年(1873年)に、フランスを模範とする中央集権的な「学制」として定められます。「学制」では学校制度が大学・中学・小学の三段階と定められ、国民に教育の機会が開かれました。(2) は「学制」の序文です。ここには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし。身を脩め智を開き才藝を長するによるなり。而て其身を脩め智を開き才藝を長するは學にあらされは能はす。是れ學校の設あるゆゑん(道徳を身につけ、能力を引き出し伸ばすことを学び、立身出世を可能にするのが学校である)」と明示されています。また、小学校は「人民一般必す学はすんはあるへからさるものとす(国民は必ず学ばなければならないこととする)」と就学義務のある8年制の学校(下等小学校4年、上等小学校4年)として規定されました。しかしながら、授業料や学校の建設・維持費などは教育を受ける主体、つまり国民が負担することとされており、負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました。

明治12年(1879年)には学制が廃止され、アメリカを模範にして学校の設置や就学義務を地方に任せる教育令が定められました。しかし、官僚らから批判の声が上がり、翌明治13年(1880年)には学校や教育に対する政府の統制を強める改正が行われました。

教育の義務という言葉が初めて登場するのは明治19年(1886年)、勅令として出された「小学校令」 (3) においてです。この後戦前期を通して修業年限は異なるものの、3~6年制の小学校(尋常小学校)が義務教育課程となりました。

小学校卒業後の進路はどうでしょうか。戦前の日本では、小学校を卒業した後、必ずしも卒業生全員が中学校に進学するわけではありませんでした。自らの希望する進路に合わせて、中学校以外の各種上級学校に進学したり、あるいは進学せずに家業を手伝ったり、職に就いたりしました。また、男女によっても進学ルートは異なっていました。

複線型の進学システム

  • (4) 学校系統図 大正8年

    (4) 学校系統図 大正8年

上級学校に進学しようとする場合にも、最終的な目標学校に合わせて進路を選択する必要があります。進学できる学校の種類は時期によって異なりますが、総じて「複線型」と呼ばれる複雑な学校制度となっています。

たとえば、高等教育機関まで含めて教育制度整備のほぼ完了した大正8年(1919年)の学校制度を見てみましょう(1940年代以降には戦争という時局変化に対応するため、この教育体制からさらに学校名称や制度が一部変更されます)。(4) は当時の学校の系統図です。この時期は、尋常小学校6年間が義務教育課程です。

尋常小学校卒業後の進路としては、男子の場合には(a)中学校を経て、(a-1)高等学校-大学へと進むルート、(a-2)専門学校へと進むルート、(a-3)高等師範学校へと進むルート、(b)高等小学校を経て、(b-1)師範学校、(b-2)実業学校へと進むルート、さらに(c)として、(c-1)実業学校・(c-2)実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合も、高等女学校を経て女子高等師範学校へ進むルートと、高等小学校を経て師範学校、実業学校へと進むルート、実業学校・実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合には、ごく一部の学校を除いて、高等学校にも大学にも進学することは認められていませんでした。

進路選択と将来の職業

  • (5) 中学校令

    (5) 中学校令

  • (6) 高等女学校令

    (6) 高等女学校令

  • (7) 高等学校令

    (7) 高等学校令

ここで1890年代生まれの江戸川乱歩(94年生)、宮沢賢治(96年生)、川端康成(99年生)の3人の小説家について、その学校歴を見てみましょう。江戸川乱歩は愛知県立第五中学校を経て、早稲田大学(乱歩入学当時、名称は大学ですが、正しくは専門学校令に基づく専門学校でした。のち大学令に基づく大学に昇格します)に進学します。つまり(a-2)のルートをたどっていることがわかります。乱歩は早稲田大学卒業、さまざまな職を経験し、小説家としてデビューしました。宮沢賢治は盛岡中学校を経て、盛岡高等農林学校に進学します。高等農林学校も専門学校ですので(a-2)のルートになります。宮沢賢治は学校卒業後、稗貫郡立稗貫農学校(のち花巻農学校となる)で教鞭をとったり、農業指導にあたったりしながら創作活動に勤しみました。川端康成は茨木中学を経て、第一高等学校、東京帝国大学文学部へ進学するという(a-1)のルートをたどっています。第一高等学校生時代に伊豆へ旅行した経験を、のちに『伊豆の踊子』で描きました。

ここで見た例は小説家の場合ですので、進路は比較的自由でしたが、官僚や教員になるには資格が必要です。資格を得るには指定の学校を卒業したり、試験に合格したりする必要があるため、進路選択がとても重要でした。試験において特定の学校を卒業すると部分的な試験免除などの優遇措置もあったからです。

たとえば、現在の国家公務員上級職や在朝法曹に相当する行政官僚や司法官僚になろうとするなら、(a-1)(a-2)を選択するのが一般的なルートです。また、中学校の教員になろうとする場合は、(a-3)を選択するのが一般的です。小学校の教員になろうとするならば(b-1)を選びます。

文部省が管轄する学校以外にも陸軍士官学校や海軍兵学校など士官を養成するための学校がありますので、進路選択の幅はさらに広がります。

このように戦前の学校制度が複雑であった理由は、先に見た「小学校令」のように、学校ごとに個別の勅令(天皇大権によって制定された法令)によって規定され、統一的な制度に基づいていなかったためです。戦後の学校制度ではこの複雑な学校制度を単純化する、つまり法令に基づく一元的な体系に整備しようとしたのです。 (5)(6)(7) はそれぞれ、中学校令、高等女学校令、高等学校令を公布した御署名原本の冒頭部分です。

上級学校に進学したのは…

複雑ながらも多様な学校の存在した戦前の学校制度ですが、当時、ほとんどの人々は義務教育課程の尋常小学校か、高等小学校が最終学歴(中途退学者も多く含みます)でした。中学や高等女学校など中等教育機関を卒業した人々はおよそ10人にひとりかふたり程度に過ぎません。そのわずかな卒業生のうち、さらに高等学校を卒業した人となると、ほんの一握りです。

時代の推移とともに高等学校の数も増加しますが、戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1パーセントを越えることはありませんでした。また、基本的に上級学校への進学機会が閉ざされていたため、高等学校や大学で学んだ女性は極めて希なケースとして存在するのみです。

このように複雑でなおかつ男女差別構造を含んだ「複線型」教育制度は、戦後の新しい学校制度により、全員が同じルートをたどることを原則とする「単線型」教育制度へと変更され、義務教育の範囲も中等教育機関にまで広げられました。そして現在では、大学をはじめとする高等教育機関への進学率は81.5パーセント(2018年現在)となっています。

<参考文献>
  • 『学制百年史』(文部省、1972年)
  • 竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折(日本の近代12)』(中央公論新社、1999年)
  • 文部科学省 学校基本調査(指定統計第13号)