日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)11月26日 第3次旅順総攻撃

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期間
明治37年(1904年)11月26日~明治38年(1905年)1月1日
場所 遼東半島西端
概要 日本陸軍第三軍は、8月、10月と相次いで失敗した旅順総攻撃をみたび決行し、苦戦しつつも203高地の占領に成功して優位に立ち、遂にロシア軍の守備隊は降伏して旅順要塞は陥落しました。またこれと共にロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)も壊滅しました。
 
 
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戦闘チャート

第3次旅順総攻撃
11月26日 第3次旅順総攻撃が始まる。(関連資料1
11月27日 第3軍の作戦方針が203高地奪取に変更。第1師団が攻撃を開始。(関連資料2
11月30日
第1師団に替わり、第7師団が203高地を攻撃。激しい攻防戦が続く。(関連資料5
12月5日
日本軍が203高地奪取に成功する。(関連資料6
12月18日
第11師団が東鶏冠山を占領。(関連資料8
12月28日
第9師団が二龍山を占領。(関連資料8
12月31日
第1師団が松樹山を占領。(関連資料8
(明治38年)
1月1日

旅順市街のロシア軍司令部に白旗があがり、開城を申し出る。
1月2日
水帥営で旅順開城規約の調印が行われる。
関連資料10)(関連資料11
1月5日
水帥営で乃木大将とステッセリ中将の会見が行われる。
 
【 参考文献 】 「新装版 機密日露戦史」、「新装版 図説日露戦争」、
「明治三十七八年日露戦史 第5巻、第6巻」
 
 
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解説

第3次旅順総攻撃
要塞陥落、旅順攻防戦の終結へ

 第2次総攻撃が失敗に終わった後も、第三軍は次の総攻撃によって旅順を攻略することの緊急性に迫られ続けました。 この年明治37年(1904年)の10月半ばに、バルチック艦隊がロシアのバルト海沿岸にあるリバウ港からウラジオストックに向けて出港したとの報が日本軍の下に届いており、この艦隊が日本近海に到着する前に旅順の第一太平洋艦隊(旅順艦隊)を壊滅させ、2つの艦隊の合流を防がなければならなかったためです。

 明治37年(1904年)11月26日、乃木希典大将率いる第三軍は、第3次の総攻撃を開始しました。攻撃開始の時点での目標は、旅順東北部の望台一帯の高地を占領することとされていました(関連資料1)。このため、第2次総攻撃と同様に、松樹山、二龍山、東鶏冠山といった高地の砲台(海上の艦船を攻撃するために海岸に大砲を設置した台座のこと)や堡塁(陸上の部隊を攻撃するために大砲を設置した台座、または石やコンクリートで固めた陣地のこと)に対する突撃が行われました。しかし、犠牲は増す一方で攻略が一向に進まなかったため、翌日の11月27日には攻撃目標が変更されることになります。

 新たな目標は、ロシア軍から203高地を奪いこれを占領することでした(関連資料2)。旅順港を一望する203高地を占領し、ここに観測点(砲撃の精度を高めるために砲弾の着弾点を観測する場所のことで、ここから送られた情報に従って砲撃の狙いを調整します)を設けることによって、旅順港内のロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃を優位に進める、という方針をとることは、以前から海軍の連合艦隊から主張されていたことでした(関連資料3)。しかし、第3次総攻撃開始の時点では
▲総攻撃中の黄金山(正面)と203高地(右奥) (防衛省防衛研究所所蔵)
海軍や大本営と陸軍との間で意思の統一がかなわず、目標が絞られていなかったところ、第三軍の当初の計画が即座に頓挫したことで、ようやく一致して203高地の占領を第一の目標とするに至ったと言われています。

▲団子山北方高地ふもとの28センチ榴弾砲 (防衛省防衛研究所所蔵)
 203高地に向け、28センチ砲を始めとする大砲による砲撃や第一師団の突撃による攻撃が開始されると、日露両軍は正に一進一退の状態となります。第三軍は203高地の占領を絶対的な目標として砲撃・突撃を繰り返し(関連資料4)、一方のロシア軍も日本軍のこうした動きを見て203高地の守備兵力を増強し、両軍の戦闘は非常に激しいものとなりました。11月30日、第七師団が203高地南西部の堡塁、ついで東北部の堡塁を占領しますが、ロシア軍は即座に猛反撃を加え、このうち南西部を奪
還します(関連資料5)。しかし、12月5日、第七師団は再びこの南西部への突撃を中心とした攻撃を決行し(関連資料6)、苦戦しながらもここを占領することに成功し、これによって第三軍はついに203高地一帯を占領下に収めることとなりました。

 203高地占領後、当初の計画どおりにロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)への砲撃が強化され、戦艦ペレスヴェート、戦艦レトウィザン、戦艦ポベーダ、巡洋艦パルラーダなどが次々に沈没、自沈、航行不能などに陥っていきました。 12月22日には、日本海軍連合艦隊から大本営に対し、旅順港内のロシア艦隊が全滅したとの報告がなされています(関連資料7)。一方で、他の要地のロシア軍に対する攻撃も順次進められ、1905年(明治38年)の元旦が明けるころには、東鶏冠山、二龍山、松樹山の砲台の占領が完了しました(関連資料8)。

▲黄金山より見た陥落後の旅順西港
港内の艦船は、左より、ペレスヴェート、ポルタワ、レトヴィザン、ポベーダ、パルラーダ、中央奥に、ギリヤーク (防衛省防衛研究所所蔵)
▲水師営での会見に際し、乃木、ステッセリ両将軍が幕僚たちと撮った写真
1列目左より、ネベルスコーユ参謀、津野田大尉 2列目左より、レイス参謀長、乃木大将、ステッセリ中将、伊地知参謀長 3列目左より、川上事務官、安原参謀、マルチェンコ中尉、松平副官、渡辺管理部長
(防衛省防衛研究所所蔵)

 1905年(明治38年)1月1日、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセリから第三軍司令官乃木希典に対して降伏(旅順開城)の申し出がありました(関連資料9)。 日本軍はこれを直ちに受け入れ、翌日には水師営で両軍の全権委員により「開城規約」が調印され、戦闘が停止しました(関連資料10関連資料11)。 以降、この規約に従って旅順要塞の日本軍への引き渡しの手続きが進められ、1月5日には、乃木ステッセリ水師営で会見を行いました。 こうして、旅順要塞の陥落、ロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)の壊滅という形で、日露両軍に多くの犠牲を出しながら長らく続いた旅順の攻防戦は、ついに終結を迎えました。

 
 
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関連資料

第3次旅順総攻撃
関連資料1 第三軍命令・第3次総攻撃の目標
関連資料2 第三軍命令・攻撃目標を203高地へ
関連資料3 連合艦隊秋山真之参謀よりの書信
関連資料4 第三軍命令・あくまで203高地占領へ
関連資料5 12月1日付、203高地攻防戦の戦況報告
関連資料6 第三軍命令・第七師団の突撃決行
関連資料7 連合艦隊告示・旅順港内のロシア艦隊の全滅
関連資料8 第三軍命令・東鶏冠山、二龍山、松樹山の砲台占領
関連資料9 ステッセリから乃木への書簡
関連資料10 旅順口開城規約
関連資料11 旅順口開城規約付録

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C06041205700
件名 : 第3軍命令11月23日 軍は26日攻撃再興し望台一帯の高地を奪取せんとす他

■資料解説

 

 明治37年(1904年)11月23日午前11時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令です。

 11月26日に第三軍が総攻撃を再開することが示されています。攻撃目標は旅順要塞正面の望台一帯の高台とされており、続く部隊ごとの攻撃計画には、具体的に、松樹山、二龍山、東鶏冠山といった高地の砲台(海上の艦船を攻撃するために海岸に大砲を設置した台座のこと)や堡塁((陸上の部隊を攻撃するために大砲を設置した台座、または石やコンクリートで固めた陣地のこと)が挙げられています。

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関連資料2
レファレンスコード : C06041206100
件名 : 第3軍命令 11月27日 軍は現攻撃中止、更に203高地を奪取せんとす他

■資料解説

 

 明治37年(1904年)11月27日午前10時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令です。

 11月23日の命令によって前日に開始された要塞正面への攻撃を一時中止し、203高地の奪取へと攻撃目標を変更することが示されています。続いて、203高地に向けて28センチ砲を中心とする砲撃を即時開始し、その効果を待って、日没ごろから第一師団による突撃を開始するといった攻撃計画が示されています。

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関連資料3
レファレンスコード : C09050758700
件名 : 旅順攻囲軍参加日誌其2(1)

■資料解説

 

 旅順総攻撃の第一の目的は、旅順要塞の攻略によってロシア海軍第一太平洋艦隊を撃滅することにあったため、陸軍の第三軍と海軍の連合艦隊が連携をとる必要がありました。 その一環として、連合艦隊司令長官の東郷平八郎の命を受け、第三艦隊参謀の岩村団次郎中佐と伊集院俊大尉の2名が第三軍の司令部に派遣されていました。『旅順攻囲軍参加日誌』は、この2名が第三軍の旅順総攻撃に参加する中で記した日誌です。

 49~52画像目には、11月6日付の記録があり、この中で、連合艦隊参謀の秋山真之からの書信の要旨が記されています。 これによれば、秋山参謀は、203高地もしくは鶏冠山方面の旅順港内を見渡せる地点を占領する見込みがあれば(旅順要塞は)陥落するだろうと考えているのがわかります。

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関連資料4
レファレンスコード : C06041206200
件名 : 第3軍命令 11月29日 軍は飽まで203高地を占領せんとす他

■資料解説

 

 明治37年(1904年)11月29日午後4時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令です。

 第一師団が28日午後7時に203高地の西南と東北の頂部を占領したものの、29日午前1時頃にロシア軍の攻撃によりこれらを失ったという経緯の後に、軍は飽くまで203高地の占領を目指すことが示されています。

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関連資料5
レファレンスコード : C09050759000
件名 : 旅順攻囲軍参加日誌其2(4)

■資料解説

 

 連合艦隊から第三軍司令部に派遣されていた、岩村団次郎海軍中佐と伊集院俊海軍大尉による旅順総攻撃の参加記です。

 19~30画像目に12月1日付の記録があり、その中で第三艦隊の山田彦八司令官に宛てた午前11時発の報告電報の内容も記されています。これによれば、第三軍は11月30日の夜に203高地の北東部まで占領したものの、その後数回にわたってロシア軍から攻撃を受け、南西部は再びロシア軍によって占領されたことがわかります。

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関連資料6
レファレンスコード : C06041206500
件名 : 第3軍命令 12月4日 第7師団5日203高地西南部嶺頂に向い突撃を決行他

■資料解説

 

 明治37年(1904年)12月4日午後4時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令です。

 翌日の12月5日に第七師団が203高地西南部に突撃し、ここを占領するとしています。また、この第七師団による攻撃の状況に応じ、203高地西南部に設けられた観測所を利用して、旅順港内のロシア海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対して「なるべく多くの砲数を使用し」て砲撃を開始するという計画も示されています。

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関連資料7
レファレンスコード : C06041209300
件名 : 連合艦隊告示第216号 12月23日 旅順港内敵艦隊滅亡せり

■資料解説

 

 明治37年(1904年)12月23日付の連合艦隊司令部による告示です(ただし、他の記録に用いるためか、日付等には取り消し線が引かれています)。

 これによれば、前日の12月22日に連合艦隊から大本営に対してなされた報告の内容は、 旅順の生死を決する203高地の占領を果たして以来、旅順港内のロシア艦隊に対する砲撃が益々威力を増し、戦艦ポルタワ、戦艦レトウィザン(レトヰザン)が即座に沈没し、 戦艦ポベーダ(ポビヘダ)、戦艦ペレスヴェート(ペレスビエット)、装甲巡洋艦パルラーダ(パルラダ)、装甲巡洋艦バヤーン(バーヤン)も撃沈され、戦艦セバストポールのみが港外に逃れたものの、水雷艇による攻撃で戦闘能力・航行能力共に失った状態であり、艦隊主力は事実上滅亡しているというものです。

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関連資料8
レファレンスコード : C06041211100
件名 : 第3軍命令 1月1日 軍は確実に東鶏冠山北 二龍山及松樹山の三砲台を占領せり他

■資料解説

 

 明治38年(1905年)1月1日午前6時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令です。

 前日の明治37年(1904年)12月31日からの戦闘の結果、東鶏冠山北砲台、二龍山砲台、松樹山砲台を「確実に」占領したとしています。また、これらの砲台と連携して、他の地点の占領も進めており、引き続き攻撃を続行する旨が示されています。

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関連資料9
レファレンスコード : C06041211500
件名 : 明治38月1月1日発 ステッセリ将軍より乃木将軍閣下宛書簡

■資料解説

 

 明治38年(1905年)1月1日に、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセリから第三軍司令官乃木希典の下に届けられた書簡の文面です。

 内容は、「交戦地域全般の形勢を考察するに今後に於る旅順口の抵抗は不用なり 依て無益に人命を損せさるか為め余は会開城に付談判せん事を望む」(日露両軍の交戦地域全体の状況を考えれば、これ以降も旅順で抵抗することは無駄である。したがって、無益に人命を損なうことのないように、私は開城について談判したいと望む)というもので、旅順開城(旅順の明け渡し)、つまり事実上の降伏の申し出です。

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関連資料10
レファレンスコード : C06041211900
件名 : 旅順口開城規約 水師営に於て岩村海軍中佐、セスノウイッチ海軍大佐

■資料解説

 

 旅順開城(旅順の明け渡し)に際しての、段取り等の日露両軍間での決まりごとをまとめた「旅順口開城規約」の全文です。

 末尾には、この規約が、明治38年(1905年)1月2日に水師営において、日本側の全権である旅順攻囲軍参謀長の伊地知幸介陸軍少将、岩村団次郎海軍中佐と、ロシア側の全権である関東州要塞地区参謀長のレイス(ライス)陸軍大佐、シチェンスノヴィッチ(セスノウィッチ)海軍大佐との間で取り決められたことが記されています。

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関連資料11
レファレンスコード : C06041212000
件名 : 旅順口開城規約付録 1月2日 水師営に於て岩村海軍中佐、セスノウイッチ海軍大佐

■資料解説

 

 旅順開城(旅順の明け渡し)に際しての、段取り等の日露両軍間での決まりごとをまとめた「旅順口開城規約」の付録の全文です。

 「旅順口開城規約」で定められた、兵器や設備等のロシア軍から日本軍への引き渡しを担当する様々な委員が示されると共に、旅順要塞内に残っているロシア軍の将兵を捕虜として日本軍の管理下に置くための段取り等が示されています。

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参考文献   大江志乃夫『世界史としての日露戦争』、立風書房、2001年
谷壽夫『《明治百年史叢書》第3巻 機密日露戦史』、原書房、1966年
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男、三谷庸雄共訳『日露戦争全史』、時事通信社、1978年
第2次旅順総攻撃に戻ります 奉天会戦に進みます
 
 
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