日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)8月19日 第1次旅順総攻撃

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期間
明治37年(1904年)8月19日~24日
場所 遼東半島西端
概要 日本第三軍は明治37年(1904年)8月、ロシア陸海軍が立てこもる旅順要塞への総攻撃を行いますが、人命を多数失いながらも占領はできませんでした。これ以後、翌年まで及ぶ旅順攻防戦が始まります。
 
 
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戦闘チャート

第1次旅順総攻撃
明治37年(1904年)
6月4日 第三軍司令部が遼東半島に上陸。(関連資料1
8月11日 乃木第三軍司令官が各部隊に旅順総攻撃計画を指示。(関連資料2
8月16日 日本軍が旅順守備のロシア軍に対し降伏勧告するが、拒否される。
8月19日
6:00
第三軍砲兵部隊の砲撃で第1次総攻撃が始まる。
関連資料3
8月20日
16:00
乃木第三軍司令官が第9、11師団に翌朝の突撃を命令する。(関連資料4
8月21日 歩兵部隊の突撃攻撃が繰り返されるが、攻撃は失敗。(関連資料6
8月22日 砲兵部隊の弾薬消耗が予想を上回り、作戦継続に影響を及ぼす。(関連資料7
8月24日
16:00
第三軍司令部は総攻撃中止を決定。(関連資料5
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」、「明治三十七、八年日露戦史」
 
 
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解説

第1次旅順総攻撃
人海戦法、近代要塞に通ぜず

 遼東半島の西端に位置する港湾都市旅順は、日露戦争当時、この一帯を清国から「租借」していたロシアの要塞でした。旅順港にいるロシア艦隊(第1太平洋艦隊)の存在は、満州で戦う日本陸軍にしてみれば自らと本国との連絡線である海上交通を脅かす相手です。 しかし、日本海軍は、明治37年(1904年)2月から5月にかけての一連の海戦を経ても、要塞に守られている同艦隊を撃滅できませんでした。そこで、陸軍の兵力で旅順を占領して第1太平洋艦隊の根拠地を奪う、という方針が実行に移されます。

 この旅順攻略を担当する事になったのは、乃木希典将軍率いる日本第三軍です(関連資料1)。6月に遼東半島に上陸した第三軍は、その後1ヶ月以上かけてロシア軍の旅順要塞を取り囲み、攻撃の準備を整えます(関連資料2関連資料3)。 しかしながら第三軍は、旅順攻略後に北進して別のロシア軍と戦うという「作戦上なるべく速かに旅順を攻略する如く計画するを要す」とされた制約に加えて、日本海軍の方から出された要請、すなわち新手のロシア艦隊がヨーロッパから出航する前(実際に出航するのは10月)に旅順の艦隊を撃破しなければならないという声にも配慮しなければなりません(谷寿夫『機密日露戦史』、1966年、199~201頁)。そこで日本軍の攻撃は8月19日、兵力不足・準備不足・敵の状況が不明なまま開始され、大きな損害を出して撃退されました。これが失敗に終わった「第1次旅順総攻撃」です(関連資料4関連資料5)。

 第三軍は、本来ならば旅順攻略後、北方でロシア軍と戦う満州軍の主力部隊と合流する計画になっていました。けれどもこの攻撃失敗の結果、日本陸軍は北の遼陽奉天付近と南の旅順要塞とのそれぞれでロシア軍と対峙する格好になり、いわゆる二正面作戦を強いられます(関連資料6関連資料7)。日露戦争における海戦のつまずきは、こうして陸戦にも大きく影響したのでした。

▲旅順要塞攻囲進捗一覧図
  (防衛省防衛研究所所蔵)
▲盤道西方における日本軍重砲隊の
戦闘。 (防衛省防衛研究所所蔵)
▲歩兵第19連隊第1大隊の西盆溝
 西北方高地での戦闘。
 (明治37年7月26日)
 (防衛省防衛研究所所蔵)
 
 
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関連資料

第1次旅順総攻撃
関連資料1 乃木希典陸軍中将が陸軍大将に任じられた事を伝える公文書
関連資料2 第三軍司令部スタッフが編集した「通報」の綴り
関連資料3 陸軍省軍務局砲兵課が編集した「業務詳報」の一部
関連資料4 第三軍司令部スタッフが編集した「通報」の綴り
関連資料5 イギリスの8月29日付タイムズ紙が報道した記事の翻訳です。 
関連資料6 陸軍省軍務局砲兵課が編集した「業務詳報」の一部です。
関連資料7 「陸軍省軍務局砲兵科業務詳報」の一部で、砲弾の生産状況について報告しています。

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : A03023368000
件名 : 任陸軍大将 陸軍中将 男爵乃木希典

■資料解説

 

 乃木希典陸軍中将が、明治37年(1904年)6月に陸軍大将に任じられた事を伝える公文書です。この時同じく、児玉源太郎・岡沢精・長谷川好道・西寛二郎といった人々も大将に任命されている事がわかります。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050595700
件名 : 第3軍通報(4)

■資料解説

 第1次旅順総攻撃の直前からその最中にかけて(8月16日~28日)、第三軍司令部スタッフが編集した「通報」の綴りです。中でも8月17日付に伊地知幸介第三軍参謀長名義で作成された通報「三軍通乙第十二号」には、「旅順方面の情報」は「本月上旬以来聴取したる土人の言を綜合すれば概ね左の如し」(原文カナ)として以下のようなロシア軍の戦備状況が記されています(40~44画像目)。

  「一.五号砲台より以西の砲台は五号砲台之を指揮し六号砲台より以南の砲台は六号砲台之を指揮す」
  「二.東及北正面各砲台の前方斜面に存在する地隙には地雷あり」
  「三.松樹山砲台の西南に新築砲台あり内に野砲六門あり又其西南に小砲台あり機関砲五門を有す」
  「四.二龍山砲台と其東方第三号砲台との中間に在る道路の両側塹壕線に各側二門(計四門)の機関砲あり」
  「五.五家房西南高地の斜面に小砲台あり内に野砲四門を配置す」
  「六.望台西北高地の臨時砲台に加農三門、東鶏冠山西北高地の臨時砲台に加農三門、東鶏冠山西方臨時砲台に加農二門あり以上加農は何れも海軍砲なり」

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関連資料3
レファレンスコード : C06040173700
件名 : 第2篇 戦役間に於ける兵器に関する事項

■資料解説

 戦後、陸軍省軍務局砲兵課が編集した「業務詳報」の一部です。「戦役間に於ける兵器に関する事項」と題された本文書には、「旅順攻囲軍」(=第三軍)に参加した砲兵部隊に関する記述が残されています(6~8画像目)。

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関連資料4
レファレンスコード : C09050595800
件名 : 第3軍通報(5)

■資料解説

 第1次旅順総攻撃の最中からその頓挫後にかけて(8月29日~9月10日)、第三軍司令部スタッフが編集した「通報」の綴りです。通報の多くは旅順周辺における日露両軍の戦いぶりを伝えていますが、中でも9月5日付の伊地知幸介第三軍参謀長名義で作成された通報は、「七.昨日第一師団より旅順要塞防御に関する「ステツセル」中将の訓示(標高174高地に於て押収したるものにして八月十二日付なり)を邦文に訳して報告せり」(原文カナ旧字)として、ロシア軍から鹵獲した文書の内容を次のように伝えています(38~40画像目)。

 「本官(ロシア軍のステッセリ中将:引用者注)は親しく前方の陣地を点検せり総ての塹壕は敵の為め近接し難き山頂に掘開せられ敵は是等の壕に突入する事困難なるべき事を発見せり」

 「各塹壕には掩蓋を設けて榴霰弾の破片より我射手を掩護しつつあり故に我射手(ロシア兵::引用者注)の為め最も重要なる事項は沈着なる態度を以て山上に突進せんとする敵を撃破するにあり」

 

 「本官の希望する所は敵軍(日本兵:引用者注)露出して我山上に突進せんとする際我軍(ロシア兵:引用者注)は沈着以て敵の山頂を去る百歩乃至二百歩の距離に達するを俟ち攻撃に転すべし此場合に敵は疲労の極突撃に出るの性能を失ひ舌乾き進退度を失ふに至らん」

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関連資料5
レファレンスコード : A03023690700
件名 : タイムスの日露戦争批評(九十七)攻城戦の進行

■資料解説

 明治37年(1904年)8月に行われた第1次旅順総攻撃について、イギリス8月29日付タイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 

 タイムズ(タイムス)紙はまず戦況全般を紹介し、旅順を拠点とするロシア艦隊の状況や「千八百九十四年の先例」(日清戦争において日本軍が清国の旅順要塞を攻略した事例)を取り上げながら、日本軍の攻撃が順調であるという「此説は攻撃の成功を誇張したるものなるに似たり」として日本兵の苦戦を匂わせています。

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関連資料6
レファレンスコード : C06040174900
件名 : 歩兵の防楯

■資料解説

 戦後、陸軍省軍務局砲兵課が編集した「業務詳報」の内、「防楯」という弾除け用の盾に関する記述です。それによると「旅順攻囲軍の戦況は一歩は一歩より苦戦にして兵卒の損傷大なるを以て防楯の必要を感」じた日本軍が「鉄条網破壊の際に使用せしむ」盾を製作し、明治37年(1904年)10月~12月にかけて日本第二軍・第三軍に送付した経緯が記されています。
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関連資料7
レファレンスコード :C06040177700
件名 : 第3篇 戦役間弾薬の準備及両砲兵工廠の拡張

■資料解説

   この資料は「陸軍省軍務局砲兵科業務詳報」の一部で、日露戦争における砲弾の生産状況について報告しています。資料中には「三十七年度動員計画に規定せられたる諸部隊所用の数量を準備」する経緯とその分量(小銃用の弾薬、大砲用の砲弾など)が紹介され、さらに同年1月には砲弾増産のため、東京と大阪の「両砲兵工廠へも勉めて器械の購入増備を計らしめたり」という当時の事情が記録されています。

 ところで、この資料の続きにあたる諸々の文書をさらに読んでいくと、砲弾の補給に関する日本軍の苦しい内情が垣間見えてきます。

 まず、当初足りると思われた砲弾は、「三十七年五月第二軍南山の戦闘に於ける砲兵弾薬の消費は三万五千余発に上り」そのせいで開戦時の備蓄が食いつぶされるおそれが出てきます。しかも6月になると、砲弾を製造するはずだった工場は、旅順要塞を攻撃するための「所要兵器」(大型の大砲用の弾薬と各種車両)を「新造若は改造」するせいで「其作業力の大半を奪はれたり」という状況になり、「野戦砲弾」生産の業務までは手が廻らない事態となります(原文カナ旧字、「南山戦闘に於ける砲兵弾薬消費数外」「31年式速射砲弾薬製造を呉海軍工廠に依頼外」「野戦重砲兵隊及徒歩砲兵隊旅順に向う外」等を参照)。

 しかしそれでも、相次ぐ戦いで弾薬を消耗しつづける日本軍は、「八月二十一日旅順要塞第一回の総攻撃失敗の結果第三軍は其の携行弾薬の約四分の三を消費し而して未だ明かならざる」という苦境に陥り、とうとうドイツのクルップ社(克虜伯)・イギリスのアームストロング社といった外国の兵器会社に対し砲弾を注文して弾薬不足を補う事になったのでした(「榴弾弾体榴散弾弾体克虜伯会社へ注文外」「大阪砲兵工廠にて試験弾底信管成績不良外」「弾薬類現在表」「旅順要塞第1次総攻撃第3軍携行弾薬の約4分の3を消費」等を参照)。

 

 軍隊の補給という問題を研究したマーチン・ファン・クレフェルト曰く、「軍事史の書物の上では、ひとたび司令官が決心すれば、軍隊はいかなる方向に対しても、どんな速さでも、またどんな遠くへでも移動できるように思われている。実際はそうはできないし、恐らく多くの戦争は敵の行動によってよりも、そうした事実の認識を欠いたがために失敗することのほうが多かったのである」(佐藤佐三郎訳『補給戦』、2006年、11頁)。砲弾の消耗にあえぐ日本陸軍、彼らがこの事実を書物の上ではなく実際の戦争を通じて認識するよう強いられていた事が、資料の文脈に仄めかされています。

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参考文献   クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論』(上)、中央公論新社、2001年
軍事史学会編集『日露戦争(一)―国際的文脈―』錦正社、2004年
平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』河出書房新社、2004年
マーチン・ファン・クレフェルト著、佐藤佐三郎訳『補給戦』中央公論新社、2006年
谷壽夫『《明治百年史叢書》第3巻 機密日露戦史』原書房、1966年
得利寺の戦いに戻ります 遼陽会戦に進みます
 
 
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