■ そ の 他 ■


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蔚山沖海戦
  (うるさんおきかいせん)
  Battle of Ulsan



 明治37年(1904年)8月14日に行われた、朝鮮半島南部、蔚山の沖合いでの海戦です。 日本から朝鮮半島に至る通商路を脅していたロシアのウラジオストック艦隊を、日本の第二艦隊が破りました。



大津事件
  (おおつじけん)
  Otsu Incident



 明治24年(1891年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、警備にあたっていた巡査の津田三蔵に襲われて負傷しました。 この事件が起こった滋賀県大津の地名から、大津事件と呼ばれています。



桂−タフト覚書
  (かつら−たふとおぼえがき)
  Katsura - Taft Agreement


 明治38年(1905年)7月29日、訪日中だったアメリカの陸軍長官タフトと首相桂太郎との間で、韓国とフィリピンの利権に関する交渉が行われました。 これを「桂−タフト覚書」または「桂−タフト協定」といいます。



間島協約
  (かんとうきょうやく)
  Jiandao (Kando) Agreement



 明治42年(1909年)9月4日に日本と清国の間に締結された協約です。 もともと、間島地方(現在の中国延辺朝鮮族自治州と長白朝鮮族自治県)の問題は朝鮮国と清国の国境問題でしたが、第2次日韓協約(韓国保護条約)によってこの問題は日清間の外交問題となりました。 その問題を解決するために結ばれたもので、清国での鉄道敷設権を日本が得るのと引き換えに間島地方は清国領となりました。



蹇蹇録
  (けんけんろく)
  Kenkenroku



 「蹇蹇録」は、明治期に外務大臣をつとめた陸奥宗光が記した著作です。 内容は、日本帝国の外交の舞台裏、とりわけ明治27年(1894年)から明治28年(1895年)の日清戦争と三国干渉に関する真相をまとめたものです。



黄海海戦
  (こうかいかいせん)
  Battle of Yellow Sea



 明治37年(1904年)8月10日、ロシアの旅順艦隊は、旅順港の外にいた日本の連合艦隊と交戦しました。 これは20世紀における、はじめての主力艦同士の海戦でした。



甲午農民戦争
  (こうごのうみんせんそう)
  Kabo Nongmin cheongjaeng
  (Tonghak peasant's war)



 東学党の乱ともいいます。1894年(明治27年)2月15日、朝鮮で、東学党を中心とした農民軍が重税に反発して起した戦争です。 いったんは解散しますが、朝鮮国政府に弾圧されたことに反発して5月に再蜂起し、6月1日には全羅道の中心地の一つである全州を占領しました。 しかし、朝鮮半島に出兵した日本軍との戦いに敗れ、12月28日に戦闘が事実上終結しました。



小村−ウェーバー協定
  (こむら−うぇーばーきょうてい)
  Komura - Weber Memorandum



 朝鮮国では閔妃暗殺事件、国王高宗のロシア公使館播遷(移居)などの事件が起こった後、親日派の要人が殺害あるいは逮捕されて親露派政権が成立します。 その結果、悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、国王の帰還を日露両国が朝鮮政府に忠告することなどが取り決められました。



三国干渉
  (さんごくかんしょう)
  Tripartite Intervention



 日清戦争の講和条約で、日本は清国から遼東半島をゆずりうけました。 しかし、ロシア、フランス、ドイツはそれに異論を唱え、日本に対して半島を清国に返すよう勧告しました。これを「三国干渉」といいます。



下関講和会議
  (しものせきこうわかいぎ)
  Simonoseki Peace Conference


 明治28年(1895年)3月20日から4月17日にかけて、日本の山口県下関で行われた日清戦争の講和会議です。



清国
  (しんこく)
  Qing


 清、あるいは清王朝ともいいます。愛新覚羅(あいしんかくら)氏が1636年に建てた王朝です。 明王朝に代わって中国を統治した後、1912年(大正元年)の辛亥革命で滅亡しました。



第2回日英同盟協約
  (だいにかいにちえいどうめいきょうやく)
  Second Anglo - Japanese Alliance



 明治38年(1905年)8月12日に調印された協約です。 これによって両国の機会均等を清国に認めること、日本の韓国保護権のイギリスによる承認などが取り決められました。



中華民国
  (ちゅうかみんこく)
  Republic of China


 1911年(明治44年)に辛亥革命が勃発し、翌年には中華民国の成立が宣言されました。 初代の中華民国臨時大総統には、孫文が就任しました。



血の日曜日事件
  (ちのにちようびじけん)
  Bloody Sunday



 明治38年(1905年)1月22日、ロシアの当時の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者の請願デモに対する発砲事件のことです。 この事件の結果、後にロシア第一革命と呼ばれる反政府運動が全国規模で勃発し、ロシアは戦争を続けることが困難となっていきます。



東学党
  (とうがくとう)
  Tonghak


 朝鮮王朝末期の代表的な新興宗教です。 従来の儒教道徳などを否定する教義が民衆の共感を得て、朝鮮半島南部に急速に広まりました。 そしてこれが甲午農民戦争の主体となりました。



西−ローゼン協定
  (にし−ろーぜんきょうてい)
  Nishi - Rosen Agreement



 明治31年(1898年)4月25日、第3次伊藤博文内閣の外務大臣西徳次郎とローゼン駐日公使の間に調印された、朝鮮半島の支配をめぐる日露間の協定です。



日英同盟
  (にちえいどうめい)
  Anglo - Japanese Alliance



 明治35年(1902年)1月30日、中国や朝鮮での利害が一致していた日本とイギリスが結んだ同盟条約です。 ここでは、どちらか一方が一国と戦争する際には他方は中立を保ち、複数国と戦争をする際には共同で戦うことが定められています。 この条約にもとづいて、日露戦争の際にイギリスは中立の立場を守りました。



日露協約
  (にちろきょうやく)
  Russo - Japanese Agreement


 日露戦争後、急激に変化した国際情勢に即応して、日本とロシアとの相互の利益範囲と共同関係とを規定した協約です。 明治40年(1907年)から大正5年(1916年)にかけて、4回にわたり締結されました。



日露講和会議
  (にちろこうわかいぎ)
  Portsmouth Peace Conference


 日本とロシアは戦争を終結させるため、明治38年(1905年)8月10日から9月5日、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州にある軍港ポーツマスで交渉を行いました。 ポーツマス会議ともいいます。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズヴェルトの斡旋の結果、日本とロシアは講和条約を調印して、戦争を終らせました。



日露講和条約
  (にちろこうわじょうやく)
  Russo - Japanese Peace Treaty



 明治38年(1905年)9月5日、日露講和会議(ポーツマス会議)において日本とロシアの間で締結された講和条約です。 この条約によって日露戦争は終結し、日本の韓国における利権が承認され、それまでにロシアが持っていた南満州の権益が日本に譲渡されました。



日韓議定書
  (にっかんぎていしょ)
  Korea - Japan Protocol



 大韓帝国における日本の軍事行動の自由などを定めた議定書です。 日本と韓国は、明治37年(1904年)2月23日に調印しました。



日清講和条約
  (にっしんこうわじょうやく)
  Sino - Japanese Peace Treaty


 明治28年(1895年)4月17日、日本側全権の伊藤博文と陸奥宗光、清国側全権の李鴻章と李経方によって下関において調印された講和条約です。 清国が朝鮮の宗主権を破棄する、遼東半島・澎湖諸島・台湾の割譲、賠償金の支払いなどが取り決められましたが、その内容は三国干渉を招くことになります。



日清戦争
  (にっしんせんそう)
  Sino - Japanese War of 1894-1895



 日本と清国が、明治27年(1894年)から明治28年(1895年)に、朝鮮半島の支配を主な目的として争った戦争のことです。



日本海海戦
  (にほんかいかいせん)
  Battle of Tsushima



 明治38年(1905年)5月27日、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊は対馬の沖合いで交戦しました。 この戦いで日本艦隊はロシア艦隊を破りました。



日比谷焼打事件
  (ひびややきうちじけん)
  Hibiya Riots



 明治38年(1905年)9月5日から7日にかけて、日露講和条約が無賠償を定めていることに反発した市民が、日比谷公園を中心に東京の各地で暴動を起こしました。



奉天会戦
  (ほうてんかいせん)
  Battle of Fengtian (Mukden)



 明治38年(1905年)2月から3月に行われた、中国の奉天(いまの瀋陽)の周辺での戦いです。 日本の満州軍は、奉天にいたロシア極東軍を破って奉天を占領しました。



北清事変
  (ほくしんじへん)
  Boxer Uprising



 義和団(ぎわだん)事件ともいいます。 明治33年(1900年)の中国で起こった排外主義(外国の影響を排除しようとする思想)の運動で、義和団と呼ばれる集団が活動しました。 これに対し、日本を含む各国が軍隊を送り武力によってこの運動を鎮圧しました。



閔妃暗殺事件
  (びんひあんさつじけん)
  Assassination of Queen Min



 三国干渉をきっかけに、朝鮮には親露派政権である閔氏政権がうまれ、排日政策を行います。 明治28年(1895年)10月8日 、駐朝鮮国公使の三浦悟楼が日本軍人・大陸浪人らを景福宮に乱入させ、国王高宗の王妃である閔妃を殺害した事件です。 同時に日本は国王の父親である大院君を担ぎ出し、親日派政権を成立させました。



山県−ロバノフ協定
  (やまがた−ろばのふきょうてい)
  Yamagata - Lobanov Agreement



 明治29年(1896年)6月9日、山県有朋とロシア外務大臣ロバノフの間に調印された、朝鮮半島における日露間の勢力均衡を定めた協定です。 現地で取り決められていた小村−ウェーバー協定を土台として結ばれたものです。



遼陽会戦
  (りょうようかいせん)
  Ballte of Liaoyang



 明治37年(1904年)8月から9月に行われた、中国の遼陽の周辺での戦いです。日本軍は、ロシア軍を破って遼陽を占領しました。



旅順口閉塞作戦
  (りょじゅんこうへいそくさくせん)
  Blockade of the mouth of Port Arthur
   (Lushun)



 明治37年(1904年)2月から4月にかけて、日本軍は、旅順港の入口に船を沈め、港にいるロシア艦隊の出港を妨げるという作戦を実行しました。 この作戦は全部で3回行われ、広瀬武夫を含めて犠牲者を幾人も出しましたが、すべて失敗に終わりました。



李−ロバノフ密約
  (り−ろばのふみつやく)
  Sino - Russian Secret Treaty of 1896



 露清密約ともいいます。 明治29年(1896年)6月3日、モスクワにおいて、李鴻章と、ロシア外務大臣のロバノフ、ロシア大蔵大臣ウィッテとが締結した密約です。 日本が極東ロシア、清国、朝鮮を侵略した場合の相互援助の約束や、ロシアが吉林・黒龍江両省を通過しウラジオストックに通じる鉄道を建設することに対する清国の許可などが取り交わされました。